私は性善説というものを信じない。我が身を省察すればするほど、大昔の中国の思想家の説を胡散臭く思う。実証性を欠く中国の古い時代の観念的な二元論では、人間性を説明することはできない。性善説も性悪説も、人間の実相を正確に探究しようとするものではない。
人が人間性(humanity)を言うとき、それは一般に善性の文脈で語られる。しかし、人間性をより深く追求・考察すれば、本能に備わる自己保存欲求に由来する様々な背徳性(利己心・独占欲など)の存在を無視することはできない。人間性には、善悪相反する性質が共存していることを、否定できる人はいないのではないかと思う。
人間というものは、確固とした判断基準が自ずから定まり、自律的に善悪を分別できるようには生まれついていない。人は社会生活を営む本能によって、権力者や多数が定めた基準・掟、すなわち社会的・倫理的・法的規範に照らして判断し行動する極めて主体性に乏しい、倫理的自我の弱い存在である。成長の過程で、家庭や学校で道徳や規範を学び、社会に出て更に理非の分別を身につけて漸く適応できるようになる。
それ故に私たちは、社会生活において各人銘々が、他者に容認される善い素質を互いに向け合って活動している。しかしその善い素質の裏に、悪い素質が背中合わせで張り付いていないと言い切れる人は少ないだろう。人間性は善悪二枚の合わせガラスの透過光と考えなければ、人間の心情の機微を理解することは難しい。
もう一つ大切なことは、善を過大に評価しないことだろう。これは、幼い頃から中国由来の理想的善人像を反復繰り返し刷り込まれ、善行を奨励された結果身についたものと思われるが、人が陥りやすい偽善という通弊は、この善を過大評価して尊敬することに起因していると思う。
ある人を過剰に褒め尊敬することは、相対的に他の人々を無意識の裡に貶めることに通じる。人間の判断は、比較によって成り立つ部分が多分にある。善はそのような相対的なものではなく、絶対的なものである。
私たちが皆、善悪一対の合わせガラスを通して人や社会や歴史を見、その知識を活用して世を渡っているものなら、外から見える善よりも見えない悪に注意を払うようにしたい。善らしきものに過大な評価を払うことを戒める気持ちが必要である。それが自分の客観性を正しく守る力と成る。
滅多にいない素晴らしい人物だと思ったら、その人物に傾倒しないよう注意すべきである。傾倒は冷静な鑑識眼を鈍らせる。出来過ぎは出来損ないよりもタチが良くないことが多い。過ぎたるは及ばざるに劣る。
私たちに勝れた人や秀でた人を過大に評価する習性が備わっているのは、自己保存のための本能的功利性とでもいうべきものがあるからである。それは、有能者や有力者の知遇を得、その人物の権勢に依拠して、世を有利に渡りたい願望があるからである。勝れた人物にあやかり、安心したい心理は誰の心裡にも働いている。大勢の人々のそのような心理が雪崩現象を起こすと、この世に智者・賢者・勇者・実力者・カリスマ・頭領などと呼ばれる人物が出現する。ナポレオンもヒトラーもトランプも、人心の雪崩現象から生まれた。
多数が支持し傾倒するリーダーというものは、ごく平凡で穏健な普通の人々の安心願望によって出現する。彼は支持者の目からは、常に実像よりも膨張して見える。平凡な人々が、非凡な人を自分たちの安心の為に実体以上に肥大させ、リーダーの座に押し上げるのだ。過ぎた評価というものは誤ちの遠因となり、結果として自分たちの身に災いが降りかかる。
日本語には「恩」という、自分が受けた利得を過大に評価する概念がある。英語に翻訳しにくい日本独特の概念である。これに「義」が結びついて「恩義」となると、よりいっそう強化された概念になる。「恩義」は長く日本社会を貫いてきたインフォーマルな掟である。
日本人は、人から受けた利得を過大に有難がり、これを恩と捉えるよう繰り返し刷り込まれて成長する。
さほどでないことまでも恩と捉え強く意識する。日本の社会は古くからそれを推奨し時には強制し続けて来た。「蛍の光」の歌詞には、これが織り込まれている。
謝恩・報恩・忘恩などなど、恩が付くと、軽く「感謝」の一言で済ますことができない。恩は与え施し返すもの、与えられ蒙るものと認識されている。
「恩を売る」・「恩に着る」という言葉に、ずばり「恩」の本質が隠れている。恩の本質は胡散臭いものである。この意味を理解すれば、恩というものが誠実の土壌から生まれるものとは限らないことを理解できるだろう。「恩」の対義語に「讐」があることを忘れてはいけない。恩を忘れた人間には、復讐もあり得る。
人間は承認欲求の塊りだから、つねに他者の賞賛を希求している。褒められたくてたまらないのが人間の本性である。しかし、人の才能や努力を賞賛しても、個人に傾倒するのは危険である。人が人に裏切られるのは、傾倒が招いた結果である。醒めた目を失わないことが大切だ。
自律心などというものは、極めて脆弱であって、時と場合で善悪どちらの側にも転ぶものである。人間の心理に潜む、自己保身の為の合理化のエネルギーの強大なことは、愕くばかりである。飯島幸三氏の公判での証言が、それを私たちに教えてくれている。
工業技術の専門家が、保身のためとは言え、事故原因を車に転嫁して、恬として愧じない。自動車の品質がどのような手続きを経て保証されているかを知悉する人が、あのような言葉を吐く。合理化の凄まじさである。
人は己の力だけでは、自分の中の背徳性をコントロールできない。人間性に常駐する悪を抑えるには、正義という社会的倫理に照らして強制するか、人間を超越する存在を想像して、それに畏怖する心を育てるしかない。前者は道徳であり法である。後者は神であり信仰である。
結論から言えば、信仰の外に悪しき人間性を抑えるものはないと考えている。自己を超越する力の存在を信じなくては、自分の中の悪しき人間性を制御することは叶わない。
私ごとだが、未だに信仰をもっていない。40代の頃、プロテスタントの教会で4年にわたる求道の果てに、洗礼を受けるに至らなかった。残念ながら信ずべき神をもてなかった。したがって今もって自分の中の悪しき人間性を統御できるとは思っていない。
悪しき人間性は野放図でしたたかである。しかし、その悪にも濃淡はあるように思う。信仰がなくても濃度を薄める方策はないものかと、長く考え続けて来た。その結果達したのは、自然の態様を具さに観察して自然の意思=摂理を学び、それを思考の基盤に据え、それに照らして物事を考え判断することだった。自然の意思を体得するには、自然と緊密に触れ合うことしかない。そのように考えて30年、自然に学び、万事不自然を遠ざける生活習慣を守り、自然に則した生き方を実践して暮らしている。
何のことはない。原始の人間、遠い先祖が身を置いた精神生活を追体験しようとしているに近い。甚だ幼稚で素朴な考えであるが、私には、此処までが精一杯である。
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