批評は私たちにとって、大切な文化活動である。人が何らかの活動をしその結果を生めば、必ず他の誰かの批評を招き、他の人の活動とその結果に触れれば、心中に批評が芽生える。批評が生まれないのは、そもそも物事の価値を見極める欲動を具えてないか、その活動に関心が無いかのどちらかだろう。
批評をすることは、その人の物事のを観る眼・見方・考え方を明らかにするもので、アイデンティティを示すことである。従って、批評することは、批評される側と同様、自らを顕らかにすることである。
意識して批評を控える生き方は、世過ぎ身過ぎとしては無難な選択だろうが、人間性に逆らうものである。それは人として旗幟を明らかにしないで生きることであり、自らの自由な心を封じ籠めることにほかならない。
個人として、ものごとの価値を検討しないでは措かない心のはたらきを批評精神と謂う。慥かな価値観のあるところから発した批評は説得力をもつ。
今日、人間の凡ゆる営為に対して、その価値を検討評価することは可能である。この世には少数の批評家と無数の批評者が存在するが、有名無名に拘らず、真の批評精神は、本質を見抜く眼が具わっている人にのみ宿るものだろう。
批評家は、活動家の仕事を検討する。活動と結果を検討し評価する役割を担っている。活動家には、批評家の存在意義は想像以上に大きいだろう。
世の中を健全に保つために、批評は大いに行われなければならない。その意味で、ジャーナリズムには、批評精神が不可欠である。批評を自ら封じた今日のマスメディアに、社会から負託されるものはもはや何も残っていない。
新聞紙面の一面広告が記事面を圧倒し、テレビは通販のCMと気象予報士の解説が、増える一方である。メディアが通俗に染まり切っている。
批評には同調・協調のスタンスが感じられるが、批判には対立・否定のスタンスを感じる。辛辣な批評とは、批判の謂である。いきおい批判の論調は断定調になる。断定は問答無用の態度だから対話に進まない。それが、批判が嫌われる最大の理由だろう。
対立する関係に、互いの批判が多くなるのはごく当たり前である。対立政党が互いに国政の場で批判の応酬を繰り返すのは、民主主義の基本である。批判を傍聴することで、選挙民の政治意識は発達すると思いたい。
民主主義が成熟した国では、批判が旺んであるが、それには節度とユーモアが求められる。辛辣なだけの批判は、温かみを感じさせない。未熟の表れである。
感情的になって議論が白熱化するのを防ぐためには、ユーモアのセンスが欠かせない。ムキになって批判の応酬に陥るのは愚の骨頂、そのような政治家は幼稚で未熟に違いない。ということは、ユーモアのセンスのない人は、政治家に適さないということである。
政権が批判に対して不快感を露骨に示すようでは、その政権の度量が狭く、好い政治が行われるはずがない。また、真正面からの議論を嫌う政権は、自らの正当性に自信をもっていない。
人は批評に対しては寛容であることができるが、批判されることは好まない。それは批判が批評と違って攻撃性を秘めているからである。攻撃には反撃がつきものである。
文字数が限られているTwitter(X)は、どうしても文面が断定調にならざるを得ない。つまりtweetは批判の礫になりがちだ。批判の指摘するところは正鵠を射ていても、批判された者は面白くない。批判に反論をする。更に批判者に人身攻撃を加えることがある。こうなると、批判の応酬は必ず泥試合となる。誹謗中傷の応酬は不毛の闘いである。
人は人間としての完成度を高める為には,批評・批判に耐えなければならない。耐える者のみが、困難な事業を成し遂げ、改革を成功に導く。
批判に反発するのは、未だ自身の完成度が低い証拠と自覚しなければならない。
唐突だが、山本太郎氏の、街頭演説での反対者に対する対応ぶりには、心底頭が下がる。氏は逃げないで丁寧に対応する。「成熟した政治家」と呼んでよいのではないかと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます