齢をとると、久しぶりに会った知り合いに「今何してる?」と訊かれることがよくある。「隠居だよ隠居!」と答えることにしている。
訊く人は、何かをしていて自負のある人である。人が何をしているか知りたい人である・・・
私たちほとんどの日本人の先祖は、勤勉でないと務まらない水田稲作に少なくとも数千年は従事していた。
稲作は他人と一緒に仕事をする共同作業が多い。他人のことを気にかけずには済まされないし、気遣いしなければ円滑に仕事は進まない。そのような習いが性と成り、他人志向の日本社会ができ上がっている。
中国に範を求めたこの国のお上は、庶民が遊んでいることを許さなかった。お上を畏れる共同体も、遊んでいる者を認めない。
したがって、私たちの中には、この個人の自由が保障された時代にあっても、遊んでいる(と見られる)ことすなわちフリーハンドでいることを憚る気持ちが潜んでいる。隠居は退役した人の謂のはずだが、まだ何かしていないと、不安に駆られる人は多い。
遊んでいること(フリーハンドでいること)は決して閑になったことでは無い。遊んでいても、絶えず手と足と頭が働いている人なら、敢えて自由からの逃避はしない。したがって際限なく為事(しごと)は増えるものである。
遊んでいられる身になって初めて、自分の人生と世の中の移り変わりを、醒めた目で眺めることができる。回顧の遑があって初めて、人は自分と社会を総括できるのである。
忙しく働いている現役のときにその時間はない。働きづめに働いて、自身と社会を総括する遑なく突如あの世に旅立つのは、決して仕合せなことではないと思う。人には回顧の時が必要である。
老いてなお、何か社会に役立ちたいと考えるのは、律儀で実直な人の健全な考えである。しかし役立つという発想が、過大な自負または自己過信に発していることも多い。
何かしていないと落ち着かないという強迫観念に囚われ易いのは、勤勉な日本人の常である。遊んでいることに罪悪感を抱くよう、長年馴致された結果であろう。
個で生きてこなかった人は、集団の中に身を置かないと安心が得られないようだ。個になるのは不安が付きまとうものだが、よくよく考えれば、人は最後には個になってこの世を去らねばならない。個は必然である。個になる準備が早すぎることはない。
現代の平均寿命では、晩年を隠居として過ごす時間はいかにも長過ぎると考える人が多いかもしれない。
だが、自分の人生と人間社会を総括するには、それ相応の思索の時が必要である。時は己れのものでなく常に神の手にあり、いつ途切れても不不思議ではない。
隠居の期間は決して空白の時ではない。凡ゆることに思惟を巡らし、思索を深め感覚を集中し、人と社会、生物と無機物、健康と病気、歴史と現在、景観と味覚に、興味と思念を向ける時である。
それは一切の俗事・俗情から解放された境遇でこそ可能になる。それは隠居の身でなくては不可能である。
80歳を過ぎても未だに俗事に煩わされているのは、当人が自負するほど誉れなことにはならない。人材は切れ目なく後に続いているものだ。
須く人の老年は、徒歩で歩き、観たり聞いたり、考える時間をもちたい。俗気を断ち、洒々落々の境地に浸るべきだ。その境地こそ、隠居の特典ではないかと思う。
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