人の思想には、個々人が自らの学習や生活体験に基づく考察によって形成した、その人独自の思想(一般には想念とか持論とも呼ばれる広義の思想)と、不世出の思想家によって著され、時を超え国境を超え、広く世界の人々に理解され評価されてきた普遍的思想すなわち狭義の思想とがある。後者は学問の対象とされ、人々の教養を潤し、またそれを学んだ個人が自らの思想を磨く砥石の役割を果たしてきた。
しかし、どんなに卓れた人物の思索の結果であり、どれだけ人口に膾炙した思想であろうとも、そしてその著書をどれほど熟読して著者の思想に精通しようとも、個人にとっては所詮他人の思想である。これに対して、自らの知能を働かせて抽出した、その人独自の思想(想念・持論の域を出ないが)というものは、中身はとにかくオリジナリティという点では、いささかも引けをとるものではない。子どもの絵が、どれも覧る人を惹きつけるのと似ている。
つまり学んだ思想というものは、その人自身が紡いだ思想ではなく、借り物の思想と言うべきものである。秀れた思想とは、謂うならば堅く踏み固められた街道のようなものである。それを辿れば遠い各地に通ずる。だが、街道が必ずしも佳い眺めや事物を備えているとは限らない。これに対して、個々人がその人生において思索を巡らせ紡いだ、片々たる泡沫に等しい思想(想念・持論)というものは、紛うかたなくその人だけが踏み分け歩いた足跡であって、その人ならではの感性と理念があり、新鮮な示唆に富んでいる。その人が亡くなれば、足跡はあとかたもなく消えてしまうものだが。
人が生きる上でのバックボーンになっていた唯一無二の思想というものは、正真正銘その人の生きた証である。
人は自分の頭で考え抜いた思想をもたなくては、個人としての思想的成長を遂げたことにはならない。つまり他人の思想に依拠しているかぎり、自分の思想(持論)を確立できない。人は須らく、他人の思想でなく自分の思想で生きるべきである。そうでなければ、この世に生を受けた甲斐がない。人生の目的とは、この一点に尽きるかもしれない。
人間は幼い頃から反復繰り返しある思想を刷り込まれ続けると、いつしかそれを自分の思想と錯覚してしまう。それは永く人の頭脳の発想を司る部分に定着し、脳の発想領域を確実に狭め、自由な発想を妨げる。つまり押し付けられた思想は、人の自由な発想の妨げになり、固定観念を育てる土壌となる。
旧幕時代に幕府が採り入れた武士階級の学問思想が、中国由来の漢学(朱子学)に偏っていたことは、よく知られている。幕府には当時の世界の多様な学問は不要だった。国の統治に都合の良い、秩序を構築する為の学問が唯一だった。
漢学(朱子学)は所詮借りものの思想で、思想の発展を招くことはなく、世も人も動かすことはできなかった。実際に当時の国を動かしたものは、是非はともかく国学だった。これら国学の思想は借りものの思想ではなく、本邦の思想家によって思索された独自の思想の集大成である。良くも悪くも、国を動かす原動力になった。
舊く偉大な思想が、個人の独自の発想による思想に比べてより因循であるのは、その思想が歴史的に長く使い回され、時代への有用性と時宜性を失うからであろう。思想は新しく生命力のあるうちは、現実にレスポンスよく反応する。思想に血が通っているからだ。時を経るほどに観念化し老朽化するのは避けられない。
つまり、どんなに優れた思想でも、今この時に適っていなければ、既に固陋な思想ということであろう。
社会生活において個人が自らの思想(持論)に忠実に生きることは、その思想に斬新性と先見性が高いほど困難が伴う。社会は思想に権威を求めるものだから、個々人の思想が一般に理解され反映されることはほとんどない。何処かで、現実社会と自己の思想との折り合い(調和点)をつけなければならないだろう。折り合いのつけ方もまた、思索の産物である。
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