パレートの法則(8:2の原則)というものがある。全体の数値の8割は、全体を構成する要素のうちの2割の要素が生み出しているという法則である。
一般にこの法則が認められる社会現象は数多く観察されるが、観察結果から生まれた経験則であって、普遍の科学的原理・法則ではない。
この法則は、19世紀イタリアの経済学者ヴィルフレド・パレートが、2割の高額所得者が社会全体の約8割の所得を占めているという社会現象に触れ発見したらしい。
全生産物の2割が売上高の8割を占め、残る8割の生産物が売上高の2割に過ぎないというのが、観察例としてよく知られている。ここからABC分析と呼ばれるパレート分析の手法が経営管理に用いられるようになった。
人の能力について考える時、人間の本質を見抜く能力を生得で具えている人の割合は、経験的に見て集団全体の2割に満たないだろう。私を含め8割の人は、初対面で相手の本質を見抜くのは難しい。
人が人の能力を見誤り信望を与えてしまう理由は簡単だ。人間は動物と違って、自らを他人の理想に叶う形に装うことができるのである。装うことに卓れた人の方が、飾らず素のままの人より多くの人々に信用され人望を得易いことは、社会ではごく一般的に観察される現実である。
政治家に成りたい人が立候補し、選挙運動をする。候補者は運動期間中、選挙民の理想の形を体現する。また候補者は当選したい一心から、投票者に耳障りの佳い政策を約束する。約束が記録され後に検証される事はほとんどない。検証・実証に拘らない民族性である。党の公約すら検証されない。
当然かも知れない。政権党は、実現の困難な得票目当ての公約を、一刻も早く忘れたいだろう。一方、政権を執る力のない野党の公約は、たとえ立派な公約であっても、空念仏ということに終わる。与野党共に公約を実行する意欲を失う。
選挙では政治家に成りたい人が立候補するが、一般論として役目に就きたい人がその役目に相応しい人であることは存外少ないものである。
政治家に成りたい人と成ってもらいたい人との比率は、8対2の原則が適用できるのではないか。もしそうなら、選挙で選ばれた当選者の2割しか適格な政治家はいないという蓋然性が成り立つ。
戦後の政治が選挙の度に徐々に選挙民の期待から乖離して来たのは、この8対2の原則が公選挙にも観察できる証明ではないか?
民主主義制度というものは、公選挙という膨大な人的・経済的ロス(コスト)を必須とする政治形態である。民主社会の膨大な無駄=コストは、民主的社会の必要経費である。これを選挙民が嫌って合理化・効率化を叫ぶ政党を支持すると、とんでもない扇動家の台頭を招き、独裁を許し国が全体主義という魔界に落ち込む危険がある。ナチスの台頭は、ヒトラーが人々に理想的改革を訴え、それを社会が支持したことに始まる。
民主主義に膨大な無駄が付き纏うのは覚悟しなければならない。無駄なコストを払っても、一見有能な独裁者に政権を委ねないことが肝要である。日和見的な政治家の方が、国民には望ましいのである。ベストを望む独善的理想主義より、ベターの調整的現実主義の方が、国家にも国民にも安全なのではないかと考えている。
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