人は品性高邁・人格高潔でありたいが、そのような人物にはなかなかお目にかかれない。それだけ、品性と人格とを兼ね備えることは難しいと言うことだろう。
品性が陋劣であると、人格が低俗に傾くことは避けられない。品性こそ、最も重要視されるべき人の基本の徳性であると思う。
一般に、品性は先天的な要因が、人格は後天的な要因が大きいと考えられている。人格は自ら弛まぬ努力で陶冶すべきものである。しかし、学歴や社会的地位に人格が連動するものでもない。
品性が勝れていれば、後天的な人格も良い方向に向かう可能性は高いが、品性が陋劣であっては、人格を磨き高めることは覚束ない。
他方先天的に決定づけられている品性は、自律的にも他律的にも、磨いたり矯したりすることは難しい。
品性が生まれつき高邁なら、人格を劣化させるような好ましくない環境に育っても、人は低劣に向かうことは決してないだろう。つまり人は品性が大本で、人格は品性を反映して出来上がったものである。品性が全人格を決定づけているとも思う。
「栴檀は双葉より芳し」の言葉どおり、品性はこどもの頃からそれとわかるもの。一方の人格は、大人になって完成するものなので、若いうちは、将来どうなるものか知る手立てがない。本人の自覚が、事を決めるに違いない。
品性が陋劣なのに人格が高潔であるように見える人もいる。
社会では、一般的に人格が重要視されるから、自分の人格が他に勝れて見えるよう、粉飾したり偽装する人も稀に出てくる。
粉飾・偽装が可能な人格というものに重きを置き過ぎるのは、慎んだ方がよさそうだ。人格は生得のものではないが、品格は生まれつき備わっているものである。
人格の基盤は品性に依拠しているものだから、私たちは人の品性に注意していれば、人に対する判断を誤ること稟性稟性はないだろう。そして同時に、自分の品性を劣化させないよう、不断の注意を払わねばならない。加齢は、人の凡ゆる稟性を奪う元凶である。
コメント有難うございます。
お金と人数が手段であり目的でもある政治の世界は、本質的に品性を尊重するのでなく、蔑ろにする性質をもっているものかもしれません。
投票者が品性で政治家を選ぶことはなく、品性ある候補者はほとんど選挙で負けますね。廉直な人物は、政治家に最も不適です。
それがどうしてなのか?未だにわかりません。
敗戦後は政治家が謙虚になっていたのか?
「もう戦後ではない」と言い出した高度経済成長後に、政治家が傲慢になり始めたのか?
政治家をサンプルと見れば、母集団の国民も変化したのか?