道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

揣摩憶測というもの

2019年03月23日 | 随想

揣摩憶測というもの、一言で云うならあて推量である。当ブログも、揣摩憶測の産物と見られるエントリーが多い。それはなぜだろう?

人は自分に都合の悪いことは、明快に説明したり記録したりはしない。それを隠そうとするのが人間の本性であろう。誰でも何処でも、都合の悪い事実は極力隠したいのが人情てある。社会は儒学が教える道義でなく人情で成り立っているのは、ご承知のとおりだ。人間の社会は、事実を正確に記録して公開するようにはできていない。記録者にも、それぞれの立場がある。記録者が無私公平に客観的に著述することなどあり得ない。歴史的な文献史料などはそのよい例だ。

そのような社会の中で、わずかな情報を頼りに何かを考えたり調べようとすれば、当初は想像力を働かして、揣摩と憶測に依る外はない。また、他人の気持ちを汲みとり配慮する忖度も、揣摩憶測が初めにあって起動するものだ。その忖度が、今や国家の運営において妨害になり問題になり、指弾されている。忖度は元々淳風だった筈だが、使い方を誤ればただちに弊風に堕する。

揣摩憶測は、調査や研究への動機・誘因として必要なものである。関心が無い事柄には、揣摩も憶測も触発されることはない。

揣摩憶測は、隠したい事実を有する権力の側が、疑惑を一笑に付すときに使う常套語だが、一般人にはそれに反論できる情報も術も無いに等しい。

慥かな情報が多く得られるようになれば、揣摩憶測は減って、より慥かな推理となり、調査や研究への手掛かりになる筈だ。ジャーナリズムがその仕事を担っているはずなのだが・・・。

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