近畿地方も梅雨入りしたが、近江路に前線が掛かるまでには、まだ間があるようだ。今回も好天に恵まれた。爽やかな風が岸辺の葦原に吹き渡り、堰堤の落ち込みの白泡が煌めいている。
伊吹山地の新穂山(1065m)に源を発して南に下り、途中で向きを西に変え琵琶湖に注ぐ姉川は、流程わずかに39km。流域の半ばは山地で、平野に出ても流れは比較的速く水は清い。
元亀元年(1570年)6月28日、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との戦いの火蓋は、この画像撮影点の3kmほど川上で切って落とされた。
織田・徳川方が勝利し、敗北した浅井・朝倉軍は、名だたる宿将を失い、以後衰亡への途を歩む。
この姉川の南岸に張り付くように佇む、長浜市国友町を訪ねた。戦国時代以降江戸期まで、火縄銃生産で堺と肩を並べる鉄砲づくりの集落である。当時の国友村は最盛期で工匠は70戸500人。世が鎮まり需要が減退した江戸期でも、幕府や各藩の鉄砲の御用を務め、繁栄し続けた。
鉄砲の伝来には諸説あるが、1542年
又は1543年、種子島に漂着した明の船に乗っていたポルトガル人から、領主の種子島時尭が二挺購入したと伝わる。そのうちの一挺を島津氏経由で将軍足利義晴に献上し、義晴は直ちに、当時鍛治師集団として京に聞こえていた国友に、鉄砲製造を命じたという。
それにしても驚くのは、模倣にもせよ、当時の東アジアでは一級の先端技術を、わずか一両年で確立してしまう製造技術と生産技術の素地が、この近江の小村国友にあったことだ。
ポルトガルと交易を行っていた中国
始め東南アジアの諸国には、火縄銃は種子島伝来より早く大量に持ち込まれていた。だが、日本のような性能の高い銃を、国産化できた国は無かった。長篠合戦での信長が、1000挺も揃えて鉄砲隊を編成できた事実は、戦史としてより技術史の面で、評価されなければならない。
世界が瞠目した明治維新後の科学技術の吸収も、この基盤の上に成り立ったものと理解できる。
「国友鉄砲の里資料館」に入った。
火縄銃づくりは、銃身づくり、台床づくり、点火装置・引金づくりと職掌が分かれ、それぞれを鍛治職、木工職、金工職が担当した。彼らはいずれ劣らず一流の技術・技能を保有していた。近江はまだこの列島で製鉄が始まる以前から、半島の鉄材を輸入して鍛造加工をする、渡来人の技術集団が住んでいたところである。
織田信長は、石山本願寺との戦いに
先立ち、羽柴秀吉を通じて国友に500挺の銃を発注したと伝えられている。
景観保全のために電力線を地中埋設した町並みは、観光客の姿もなく謐まりかえっていた。鉄を鍛える往時の槌音を想像で補いながら、町内を散策した。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます