道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

夏らしくなったが

2019年07月26日 | 随想
学校は夏休みに入った。セミは盛大に鳴いている。子供達は虫捕りや魚捕りに忙しい。なのにNHKのニュースは、梅雨が明けたと伝えない。ハッキリした発表を聴いた人はいるのだろうか?毎年梅雨明けはウヤムヤにされている。戻り梅雨への懸念の方が、優先されているのではないか。

全地球の気象状況が居ながらにして一目瞭然に見えるようになってみると、列島各地の梅雨明けを、昔のように明言してよいものかどうか、気象専門家には却って難しくなったらしい。地震の専門家も、3.11以来、予知からは距離をおいているように見える。困難なことが証明されつつあるのだろう。医学の分野でも、かつての、聴診器と触診だけで即断して患者に病名を告げるようなことはしなくなった。検査データ無しで病気を診断した時代があったのは、そんなに遠い昔のことではない。

科学はある発見、 発明がある度に、解明や発展の端緒に取り付いたと研究者が殺到する。研究の密度が濃くなり知見は蓄積され、その分野の視界は開ける。すると、今まで見えていなかった峻峰が、迷蒙の霧の中から姿を現わし、行く手に立ちはだかる。その峰の先にもまたその先にも、見えない峻峰は無限に連なっているのだろう。

思うに、科学が進歩すればするほど、知見が増えれば増えるほど、事象を明確に理解し、断定することが困難になるようだ。断定はある意味それまでの無知が成せる誤謬であったのだろう。事象のデータは調査や検査で詳しく知ることができるが、それらの相互関係や因果関係そして事後の予測と対処となると、洵にあやふやな未知の世界が待っているということだろう。専門家と雖も万能では無い。時には、体験してみなければ、実行してみなければ分からないこと、すなわち50%の確率の事案を素人に提示することもあって、正直愕然とさせられることもある。

学術が深まり高度になればなるほど、この世のことは分からなくなるのが当然なのかと思う。それでも私たち人間は、敢えてそれに向かって突き進むようにできているらしい。人類は累々たる先兵の屍を乗り越えて、怯まず雄々しく文明の戦線を前へ前へと押し進めてきた。

学問や科学の進歩と人間の幸福とが必ずしもリンクしていないことを、19世紀には薄々気づいていながら、そのまま20世紀を突っ走り、21世紀になって、地球の損傷が回復不能になったことを知った。私たちは、そのことを冷静に受けとめ、改めて幸福について考えを糺さなくてはならないと思う。

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