近江の繖山(きぬがさやま)別名観音寺山の観音寺城を拠点に、平安時代から戦国時代まで、南近江に君臨した豪族は佐々木六角氏である。宇陀源氏の系譜を誇り、沙沙貴神社を氏神に、国内有数の名族として武士の社会で常に仰ぎ見られていた。
近江源氏佐々木氏は、古代豪族狭々城山公との姻戚関係を手掛かりに、平安時代には琵琶湖の東岸に勢力を蓄えた。一時衰退したが、源頼朝の平氏追討に一族を挙げて参加、戦功あって近江守護に補任され、興隆の礎を築いた。
鎌倉時代中期に京極氏と六角氏、その他三氏に分かれ、愛知川を境に以北を京極氏、以南を六角氏がそれぞれ領し、互いに勢威を競った。京都の六角と京極に夫々が屋敷を構えたのが由来で、その名がある。
南北争乱の時、六角氏から佐々木道誉という婆娑羅大名が出て活躍し、足利尊氏を援け室町幕府の重鎮となっている。
室町時代以降、六角氏と京極氏は敵対する関係になる。戦国時代になると、京極氏は家臣の浅井氏の擡頭で勢力が衰えたが、六角氏は観音寺城を中心に南近江に覇を唱え続けた。
佐々木六角氏はユニークな武門である。多かれ少なかれ脛にキズをもつ戦国大名の中にあって、筋目が良いせいか、従属する国人領主や譜代重臣たちに、絶対君主としての締め付けが緩いように見える。逆に彼ら家臣たちの方が、自主・自立の精神に富んでいたのかも知れない。
繖山(433m)全山を城地とする観音寺城は、他の戦国大名の城と違って、御屋形六角氏を頂点に、上級家臣たちが繖山南面に分散して各々曲輪を築き城館を構え、山全体が小城郭の集合体の観を呈していたようだ。自然発生的な城塞と言えよう。
統一された設計思想に基づく築城でなく、それぞれ家臣の居館のある曲輪が山道で連結する形態であったため、城塞としての機能性と防御性は強固ではなかったと見られている。
織田信長の上洛に際し、15代六角義賢(承禎)・16代義治(義弼)父子は、徹底的に抗戦することなく城を放棄して甲賀に落ち、其処でゲリラ戦を展開する。もともと家臣団の支配に緩みがあったところへ、信長の調略があっては敵わない。主立った家臣たちは多くが信長に靡いた。
戦国大名としては弱体の誹りを免れないだろうが、武家の系譜の上での佐々木氏は名門、しかも六角父子はそれぞれ一武人として弓馬の術に傑れていた。信長は佐々木一族を討滅するのは惜しいと思ったのか、臣従させようと度々説得を尽くしている。奈良・平安時代以来の近江の名族佐々木氏を、彼独特の感性で高く評価していたのではないかと推測する。
六角氏は日本で最初に楽市を城下石寺に開いていたという。規制を嫌う血脈がこの一族には通じていたようだ。それはこの近江の各地に見られる自治の気風につながっているのかもしれない。戦国大名になり切れなかった佐々木六角氏、日本の中世武家社会に異彩を放った一族である。
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