道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

宗良親王の遭難

2012年08月18日 | 歴史探索

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浜松市南区白羽町を南流する馬込川に架かる白羽橋から、200mほど河口寄りの左岸に、後醍醐天皇の皇子宗良親王上陸地の顕彰碑がある。碑には【李花集】所載の詞書と歌が刻まれている。

「延元3年(1338年)の秋の頃にや、伊勢より船に乗りて心ざし侍りしに、天竜のなだとかやにて、波風なべてならずあらくなりて、二三にちまで沖にただよい侍りしに、友なる船ともどもみなここかしこにしづみはんべりしに、かろうじてしろはの湊という所へ、波に打ちあげられて、我にもあらず舟さしよせ侍りしに、夜もすがら波にしをれていとたえがたかりしかば」

「いかでほす ものとも知らず苫やかた 片敷袖の よるの浦波」

歌詠み(母方)の血統を引き数多くの秀歌を遺した宗良親王だが、時代は彼に戦場往来の人生を過ごさせた・・・

延元元年(1335年)、南朝方の頽勢挽回を期す後醍醐天皇は、戦略的要地の九州・陸奥・東海のそれぞれに、3人の皇子を派遣する決断を下し、それぞれの皇子とその随臣たちに準備を命じた。

延元3年秋、陸奥をめざす義良親王の船団と、遠江を目指す宗良親王の船団が、伊勢大湊(現伊勢市)を進発した。紀伊・熊野の水軍がその主力であったという。

不運にもこれら大船団は遠州灘で嵐に遭遇する。台風によるものとされているが、この説には疑問もある。

伊勢大湊と天竜川沖は直線で約80kmほど、当時の船で1日行程だが、台風で遭難したとなると出航日当日はすでに伊勢湾の外はうねりも高く風も強かった筈だ。海を知り尽くした海賊衆の船団が、翌日に海難に遭うような天候・海況の下で出航したとは信じがたい。外海が荒れていたら、伊勢湾口から出ず、天候の回復を待つのが順当だろう。台風遭難説は、出航時期が台風の季節に当たっていたことから、後世の人が思いついた根拠のない俗説と見る。

天候が急変する気象の候補として先ず第一に考えられるのは、低気圧をともなった寒冷前線の通過であろう。それまで穏やかな海がにわかに波立ち、激しい風浪に翻弄されて破船する例は、日本の太平洋岸に数多くある。親王の記述に最も近い状況かと思われる。旧暦9月はそのような気象が発生し易い。いずれにしても、内海と違って外海の荒海の波浪に対して、気密甲板と竜骨の無い当時の平底和船は、極めて脆弱だったことだろう。

東国を目指した義良親王と随臣の北畠顕信は伊勢に吹き戻され、顕信の父北畠親房は数日後常陸に漂着する。

宗良親王麾下の遠江派遣軍の船団は、2・3日の漂流中に多くが沈み、親王の座乗船ほか数隻の船が辛うじて当時の匹馬(ひくまうら)白羽湊(しらわみなと)に漂着したという。隣接する天竜川三角州の掛塚湊(かけつかみなと)や御前崎半島の海岸に漂着した船もあったらしく、一帯には遭難にまつわる伝承がいくつか遺っている。

親王はじめ遭難者は、救出に来援した井伊道政の手勢の嚮導により、無事浜名湖の北西岸井伊谷の井伊館に入る。しかし、親王に安寧の時は訪れなかった。

以後は、都から遠江に急派された武家方歴戦の将、高師泰・高師兼らが率いる追討軍との戦いに明け暮れる。

武運拙く延元5年(1340年)、井伊氏は遠江の拠点の全てを失い、親王も落去する。

井伊氏の本貫地陥落の後、親王は青崩れ峠を越え信州大河原(現在の長野県大鹿村)の南朝方領主、香坂高宗を頼ったとされている。その前に一時的に駿河の安倍城狩野貞長のもとへ移った説もある。

親王が最も長く在住したのは、この香坂氏の本拠地、信州伊那の大河原で、75歳で薨去したのもこの僻鄒の地であったという。

親王は遠州・信州の各地に戦いの足跡を印し、その伝説はこれらの土地に数多く遺っている。北遠・南信地方が、南朝に与する国人土豪の多い土地柄として世に知られているのは、宗良親王の存在と活動の影響が大きかったことを物語っている。

後醍醐天皇には皇子18人、皇女18人計36人の子供がいたと伝えられている。当時は宮家・武家を問わず親子関係は君臣に準ずるものであったようだ。皇子達は、帝の股肱の臣として西に東に転戦を余儀なくされた。実戦を指揮するというより、宮方に与する国人領主達の戦意を高揚する目的での下向だった。

今日では、白羽湊の正確な位置や港湾施設の概容はわからない。葦の生い茂る馬込川河口部の顕彰碑のある辺りが、その湊の一部であったことだけは慥かなようだ。


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