道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

マドンナ

2012年08月08日 | 随想

男というもの、老若問わず胸の裡にマドンナの面影を宿しているものらしい。本人が否定しても、基準?に照らしてみると大抵マドンナということになる。

マドンナとは?

基準1:その女性を聖女視している

基準2:その女性に憧れを抱いている

この基準がふたつとも満たされれば、男性の胸中に在る女性は、紛う方なきマドンナであると見てよいだろう。

他方女性の場合は、憧れの男性というものはあっても、そもそも前記基準1と同等の存在を欠く(聖男というものが存在しない)ため、マドンナに匹敵する異性像をもたない。女性の場合のそれを直截に示す語が無いのは、この事情による。敢えて充てるなら、「王子様」とか「憧れの君」とかになるのだろうが、しっくり来ない。憧憬の度合いが本質的に違うからかもしれない。

山田洋次監督のシリーズ映画「男はつらいよ」では、各作に必ず寅さんがひと目惚れするマドンナが登場した。惚れるといっても、マドンナを恋人とか妻にしようなどと目論まないところが寅さんの真骨頂で、それはとりもなおさずマドンナというものの本質を明らかにしている。結ばれないから、マドンナとして活き続けるのだ。

夏目漱石は、初恋の女性の大塚楠緒子(くすおこ/なおこ)との結婚を希ったことがあった。ふたりの出会いの経緯からすると、彼女は漱石のマドンナであったと見て差支えないだろう。当初は、通学の道すじで視認しあうだけの、意思疎通のまったくない間柄だったようだ。

漱石は、知友の大塚という学者と彼女との間に縁談がもちあがったことを知ると、猛烈に彼女を自分の妻にと望み、人を介して彼女の家に短兵急なはたらきかけをしたらしい。だが、彼女の両親は漱石を斥け、予定の人物を娘の夫に選んだ。彼女自身の意思でもあったのだろう。彼女は漱石の気持ちを、意に介していなかったかもしれない。

漱石はマドンナを妻にと希ったために、マドンナの消滅と失恋の苦しみの両方を味わうことになった。彼の創作活動の上では、この事件がその後の著作に多分に好い影響をもたらしたと見られている。大塚夫婦の仲は極めて円満で、漱石が作家として大成して以降、親交が続いたようだ。

結婚から15年、歌人として名を成した大塚楠緒子に若すぎる死が訪れる。もしかすると彼女はこの時ふたたび、漱石の心裡にマドンナとして蘇ったのかもしれない。彼女の死を聞いて漱石が詠んだ

あるほどの 菊投げ入れよ 棺の中

の句に、その衷情が切々と表れている。

初恋がたいてい成就しないのは、未熟な若者がその相手の女性をよく知らないのに理想化し、一挙にマドンナの座に据えてしまうからだろう。その結果、彼は自縄自縛に陥り、本当の恋への道を自らの手で閉ざしてしまう。何と老生にも覚えがある。憧れが相手を生身の実像から無機質な虚像にしてしまうのだ。手前勝手な男の心理というべきものだろう。

 マドンナになることよりも、恋なり妻になることの方がその女性にとって本来の願いなのに、男の過剰な思い入れから、窮屈なマドンナに祀り上げられてしまうのは、当の女性からすれば迷惑以外の何ものでもないだろう。したがって、その女性は、必然的に自分をマドンナ視しない男性を求め、目的を全うする・・・。

これで一件落着かと思うと、世の中そう簡単にはいかない。妻をマドンナ視しなかった当の夫の心の裡にも、実はマドンナが宿っていたのである。それは虚像だから妻にとって何の害にもならないものの、やはり気障りな存在ではある。虚像というものは洵に始末が悪い。年を経るほど像は美化される。マドンナに成りたくもないしマドンナを認めたくもない。女性とはそういうものかもしれない。

一方、初恋を、マドンナを、失った男の方は、学習の結果マドンナたり得ない女性と結婚をするのだが、性懲りもなく新たなマドンナを胸の裡に宿すことがある。好色とは別次元の、男性ならではの不可思議な性癖ではある。要するに懲りないのだ。

マドンナというものは、男性になくてはならない存在かもしれない。かくして、マドンナのいない男性はこの世にひとりも居ないという推定がなりたつ。

何故こうも男たちはマドンナを希求するのだろう?それはおそらく、この世に生を受け、初めて目に映った母親の原像をマドンナに重ね、胸中深く安置しておきたいからではないだろうか・・・?


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