道々の枝折

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容貌について

2020年12月31日 | 自然観察

私は自分の顔を棚に上げ、臆面もなく人様の顔を仔細に観察することが多い。しかしそれは、人相で運勢を占うのでもなければ、私的美人コンテストの審査員を務めるつもりでもない。

容貌というものは、知性・品性・徳性・情操・感性・情緒性・意志・意欲など、人間の内面の凡ゆる情報を表示するモニターである。それを解説することは、深田久弥の「日本百名山」の山容描写と似ている。人容描写という言葉があるなら、まさにその解説に該る。

私が人様の顔を意識して見ることは、草花や樹木を見るのと同様、自然観察のカテゴリに入るだろう。その観察はそのまま人文観察へと繋がっている。

西欧の文芸作品には、登場人物の容貌を微に入り細に入り仔細に描写するものが多い。人物の性格を克明に浮き上がらせる描写力と分析力には感服する。
それに比べると日本人は、人の顔を論うことに大昔から遠慮があったらしく、単純に美醜両極の二元で捉えるばかり。美醜も多様なはずなのだが、克明な説明は殆ど省かれる。
源氏物語の登場人物の容貌を、文章から正確に彷彿できないのは、私だけだろうか?

顔を論うことをマナー違反と心得る文化が、日本社会には定着しているようだ。
日本の作家は登場人物の容貌をあまり熱心に書き込まない。相当描写力に卓れている作家であっても、小説の人物描写は総じてあっさりとして、精細には書き込まない。時代小説になると時の隔たる分一層非写実的で、描写は甘くなる。登場人物の人間像は、容貌よりも彼らの言葉遣いで想像する習慣が私たちには根付いている。

読者は登場人物の顔の特徴をつかめないままに物語を読むことになる。登場人物の容貌も性格も不明瞭な物語というものは、読む者には物足りない。
書き手の描写力と表現力が足りないのか、読み手が文章から容貌を想像する力が至らないのか、おそらく両方の力が作用しているのだろう。

容貌ばかりではない。海川池沼や山岳などの自然景観や都会の街並み、田舎の田園風景の描写も、日本の多くの作家はあまり克明に立ち入らない。日本画と西洋画を見比べれば、立体表現、遠近表現、色彩表現において、どちらが写実性が高いか歴然としているが、それも、彼我のディテール描写力の強弱の結果だろう。

小説の中の人物の容貌描写を絵に喩えるなら、欧米の作家の小説は油彩画、日本人の小説は水彩の淡彩またはパステル画とでも言えそうだ。一二の例外を除き、日本人作家は、文章で物体や景観を表現することに執着しない。これは人種的な稟性の違いに因るものと理解する外はない。

顔は人間の刻々の心理を映し出す。
ロバート・ルイス・スティブンソンの「宝島」にその例を見ることができる。主人公の少年に磊落に接する海賊ジョン・シルバーが、ふとした時に見せる狡猾で残忍な表情の変化の記述に、叛服常ならぬ悪党の悪徳性を感じ、スリリングな緊張と不安に駆られながら読み進んだ子どもたちは多いだろう。長じてから読むと、決して子供向けの冒険小説ではなかったことがわかる。

西洋人の、変化の大きいインパクトのある顔の造作と、東北アジア人の比較的平面的で印象に乏しい顔立ちとの違いも、描写の深浅の遠因になっているかもしれない。モノクロに近い目色・髪色など表現の対象が単調なことも、関係してくるだろう。彼我の人種的な外見要素の違いが、習慣的に人物描写の濃淡をもたらしたかもしれない。

容貌のデッサンは、登場人物の性格を暗示するに不可欠である。人間の洞察には、顔が最も大切な手がかりである。これは「人の心は顔に顕れる」という法則が真理だからであろう。「顔は履歴書」という言葉も「目は口ほどにものを言い」の諺言も、この真理を裏づけるものだ。
実際のところ、心の荒みや生活の疲れは、如実に容貌に顕われ隠しようがない。傲慢や驕慢や偽善は、表情で巧みに隠すことができるもののようだが、炯眼の士の眼力には敵わない。

これだけ静止画・動画が至る所で撮られている現代、人の顔は一瞬で世界を駆け巡り、コピーによって永遠に記録され続け保存される。ネガを処分すれば済んだ時代ではない。IDとしてデータベースの最も重要な要素になり得る顔に、私たちはよくよく気をつけなければならない。インスタグラムで無闇矢鱈と自撮りを公開することは、あまりにも無邪気すぎる。




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