私たちは何かを見聞きすると、「感興」を催し、「感懐」を覚える。
物事の認識は感興に始まり、感懐で終わる。感興があれば感懐は自ずと湧き起こるものである。
感懐を覚えなかったとしたら、感興を催さなかったということだろう。乗り物に乗って、窓外の景色を見ずに終点に着いた状態に似ている。
長い人生、見聞や探訪そして会見の機会は無数にある。それらに参加しながら、感興を催すことがなく、感懐も覚えなかったとなると、その人は将来それについて「述懐」することはないだろう。感懐を自己の内に温め、それを他の人に伝えるためには、述懐が不可欠だ。述懐が無いということは、記録も思考も考察も、自ら封じるか放棄してしまったということである。
老境に相応しい述懐の愉しみを、放擲してしまうのは、いかにも勿体無い。
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