子供の頃に東映時代劇を見て暮らし、その後もテレビの時代物を好んで観てきたせいか、その影響が身についてしまい、武士の言葉遣いや挙措動作がときどき顔を出して困ることがある。
テレビの「水戸黄門」なんぞを、悦に入って見ている同輩にも、武士の物言いや仕種が知らず備わっているご仁が居る。まさにこの言い方が、時代劇かぶれなのだ。面白いことに、大方は武士が模範であって、素町人や無頼者の言動は真似しない。
江戸時代というものは、武士が最も完成の域に近づいた時代で、その姿や言動が、庶民の憧憬の的となり、日本人のあるべき姿として広く受け入れられた時代だったに違いない。武士の生活は、商工民・農民の模倣の対象だった。人は上部階層を模倣する。当時来日した欧米人たちも、武士の礼儀・作法には一目置いたという。
ところで「水戸黄門」の劇中では、「よいではないか、悪いようにはせぬ」とか、「お主も悪よのう、越後屋」とか、色と欲を丸出しにした決まり台詞が頻繁に使われる。大方の男性視聴者はこのフレーズが好きで仕方がないのだろう。現実世界では発せられないセリフだから、時代劇の場面に感情移入して、日頃の良い人を忘れ、悪の権化に内心を同化させ、悪への願望を満足させる。他愛もない勧善懲悪のマンネリ劇のようでいて、実に巧妙に視聴者の心理の綾を掴み、視聴率を稼ぐ極めて知能的な番組である。
このドラマは、悪を懲らしめるようでいて、悪の魅力を毎回強調する。長期間にわたる由美かおるの入浴シーンも、男の出歯亀趣味を満足させるためのものだった。視聴者(少なくとも男性の)たちは、正義の実行者の黄門一行にではなく、悪事を働く悪者たちに、密かな共感を覚えていたに違いない。
「水戸黄門」が制作終了後の今もお茶の間で人気があるのは、毎回、存在感に溢れた貪欲で好色な悪代官・悪奉行・悪商人が入れ替わり立ち替わり登場するからかもしれない。男性視聴者たちは悪役になりたいのである。主役の黄門や準主役の助さん格さんなどは男性視聴者たちには実は取るに足らない端役で、婦人視聴者たちに任させておけば好いのである。ほんとうの主人公は、殿様より佳い身なりの悪者たちなのではないかと思えてくる。雲の上の殿様は、常に清廉な名君なのだが、その名君を欺いて私服を肥やし悪行を重ねる家老・奉行・代官たちが魅力的なのだ。
悪の首魁のほとんどが豪奢な衣装に身を包んだ武士、当時なら見る者の憧れだったはずで、現代にも通ずる。「水戸黄門」は「忠臣蔵」の対極にあるドラマツルギーで出来ている。
われわれは、武士のあの四角四面で堅苦しい言葉遣いや窮屈な作法に憧れる心理を、今も引き摺っているのかもしれない。そういえば、日本人は、何事につけ作法・礼式を重んずる。堅苦しい典礼がマニアックなまでに好きだ。万事、礼に始まり礼に終わる。礼の陰で悪が密かに栄える現実を、「水戸黄門」は毎回教えてくれていると見るのは穿ち過ぎだろうか?
儒教がもちこんだこの礼の精神、形式主義は、日本は本家本元の中国ならびに経由地の朝鮮半島を凌いで、今日では優等生である。今や世界の人々から、敬意をもって視られるまでになった。常々儒教・儒学を批判的に見て来た私だが、何が幸いするかわからないと痛感している。
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