滋賀県蒲生郡日野町へ行った。これまで近江の歴史探訪を何十回となく累ねて来たが、日野町は公共交通の便が悪いため敬遠していて、今回が初めての訪問。
日野町へはJR琵琶湖線近江八幡駅で電車を降り、近江鉄道バスに乗る。山の麓まで、見渡す限りの田圃の真っ只中を、バスはひた走る。古くは蒲生野と呼ばれた広大な平野の真中を走っているのだろうか?似たような田園風景の中で聞き覚えのないバス停名に、自分が今どの辺りにいるのかサッパリ分からない。突然バスが近江鉄道日野駅の駅舎前に停まり、はじめて降車停留所が近いことを知った。
事前に予約しておいたボランティア・ガイドさんが待つ大窪バス停で降りた。早速歴史民俗資料館の「近江日野商人館」へ案内してもらう。館内で日野商人400年の歴史についてレクチャーを受け、展示物を見る。
日野商人は江戸時代、漆器と薬の行商(主に関東方面)で財を成したと云う。その財を故郷に蓄えることなく、行商先で醸造業などを起こし、現地に資本を投下して定住したらしい。また、本店に資本を集中することを避け、支店を多く出すことで、リスクを分散し販売量を殖やしたという。
日野商人の成功への着想と経営哲学には、大いに興味を唆られたが、歴史好きの私はそれよりも、この地が蒲生氏の本貫地であったことの方に関心が傾いた。
蒲生氏郷は信長、秀吉と二代の権力者に重用されながら早世した。才智と武勇を兼ね備えた出色の戦国武将だった。信長は格別に氏郷の能力を買っていた。
この〈蒲生氏郷〉と〈高山右近〉〈細川忠興〉の三人は、織田家中にあって特筆される若手武将だった。共に武勇に優れ風雅の道にも堪能、千利休の茶の湯の高弟だった。また共にキリシタンでもあった。当時キリシタンに改宗する武将は、インテリであったに違いない。文武に優れ芸術に造詣の深い、開明の武将たちと言えよう。
蒲生氏は、歴代南近江の名族佐々木六角氏の重臣の家柄で、蒲生郡日野を本貫とする領主だった。氏郷は蒲生賢秀の三男に生まれている。
織田信長の南近江侵攻の際に、父の賢秀は佐々木氏を離れ、織田家に仕える。人質の氏郷は幼くして才気煥発、忽ち信長の目に留まる。元服に際しては、信長が烏帽子親になり、信長の次女を娶ってもいる。いかに信長の信任が篤く、将来を嘱望されていたかが解る。
信長が明智光秀に弑逆された後羽柴秀吉に仕えるが、奥州伊達氏への押さえとして会津42万石(後の検地により92万石)に転封された。
秀吉は、徳川家康を三河・遠江・駿河から武蔵・相模に移したと同様の目的で、蒲生氏郷を遠国に移したのだろう。
武勇と知略に優れた蒲生氏郷を大阪の喉元にあたる近江から遠ざけると共に、伊達政宗に対抗させ互いの消耗を期す狡知に長けた政略と見ることができる。蒲生氏は領内に鉄砲を製造する能力をもっていたというから、秀吉は蒲生氏をとても本領日野には置いておけなかったろう。
会津に移った蒲生氏郷は、秀吉の朝鮮出兵の直後、不運にも40歳の若さで病に倒れ、伏見で亡くなった。
「思ひきや 人の行方ぞ定めなき 我がふるさとを よそにみむとは」
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