古代アンデス文明展
開催場所:名古屋市博物館
期間:2018.10.06~12.02
訪問日:11.30
惹句:アンデスってなんです?
内容
・第1章 アンデスの神殿と宗教の始まり
・第2章 複雑な社会の始まり
・第3章 様々な地方文化の始まり
・第4章 地域を超えた政治システムの始まり
・第5章 最後の帝国 チムー王国とインカ帝国
・第6章 身体から見たアンデス文明
アンデス文明は、もしかすると4大文明よりも早く世界最古の社会が成立した所である可能性があり、その後も文字や車を持たない、そしてお金を持たないのに高い文明を築いていたという、ヨーロッパやアジアから見ると不思議な状態にあった。しかしスペインのやくざな少数の集団によって、その文明を受けついだインカ帝国が一瞬にして瓦解した。その過程にはナスカなど変わった遺跡が残っている。
土地柄も面白く、高さ6000mを越えるアンデス山脈の東は密林、西には砂漠から海岸と、バラエティに富んだ環境を持っている。
漫画では、手塚治虫が「三つ目が通る」の中にその文明を採り入れており、またインディジョーンズ クリスタルスカルの国で、変形させた頭蓋骨を扱っている。非常に謎の多い文明である。
断片的な展覧会等にこれまで行ってきたが、先史時代からインカ帝国までを通した遺品の展覧会であったので、訪問した。
ほとんどの部屋で写真撮影可能であり、またネットでも主要な作品の写真展示はなされていた。そういったカタログ用写真は、撮影条件がきっちりコントロールされていて非常にきれいに撮れている。それに自分なりの視線で撮影し対抗しようと思ったが、やっぱり難しい。
<第1章 アンデスの神殿と宗教の始まり>(紀元前3000年頃~前1500年頃)
メソポタミアでシュメール人が王国を作ったころ、アンデスでも大神殿が日干し煉瓦で作られたとビデオで遺跡を紹介(カラル遺跡)。人型の土器や神殿の装飾壁が展示されていたが、その中に骨製の笛があった。棒状の真ん中で吹き、左右の穴を押さえて音色を変えるとのこと。この時代に音階を作っていた。
<第2章 複雑な社会の始まり> チャビン文化(紀元前1300年~前500年頃)
日本の場合、弥生時代が3世紀まで続くが、そのずっと前に複雑な社会が成立している。高さ3000mという富士山クラスの所に、神殿や地下の街を作っている。
鳥に似た生物を線を刻んだ石板、石彫の頭、金の冠、そしてきれいに彩色された土器などが展示されている。
石板の生物は、ナスカの絵のようにも見える。石造りの頭は、神聖な扱いであったジャガーと人間の顔との間を結びつけるもので、手塚はじめ、いろんな漫画に登場する。金の冠で打ち出された顔は、下膨れのおじさんみたいでちょっと滑稽にも見える。少し褪せた金色なのは、純金ではなく合金であることによると思われる。(後述するスペイン人に収奪されたインカの金製品も合金製)
彩色土器の意匠はとても面白い。前述したように車がなかったため、ろくろもなく軸対象の土器はほとんど作られていない。これは取手の中を液体が通る様にしていて、日本にはその後の時代でもこんなタイプは見られない。色もちゃんとした釉があったものと思われる。なお自ら首を切っているという不気味な土器もあった。これは、生者の隣で並列に死者の世界があり、死者はそこで生きているということで、その両者のつながりを示すというもののようだ。
<第3章 様々な地方文化の始まり>
モチェ文化(紀元後200年頃~後750/800年頃)
ナスカ文化(紀元前200年頃~後650年頃)
第2章は統一政権であったが、この時代はペルーの赤道側海岸線のモチェ文化、南の高原側のナスカ文化が、並列に栄えている。一番最後の頃で、日本の奈良時代にあたる。(ナスカは奈良時代の前に滅んでいる。)
先にナスカについて述べる。こちらは地上絵で非常に有名だが、1300年以上も前の地上に書いた絵がそのまま残る程雨の降らない状況に環境変化してしまい、その後山地へと移動することになる。そこでは乾燥のために非常に簡単にミイラが出来てしまう。ミイラを覆った布には、精霊を示す図柄がカラフルに織り込まれている。
文字がない代わりにこのような図柄で情報伝達していたが、それを描く対象が土器へと変わっていった。
自然界の蜘蛛の紋様の土器、それから神や人の顔を描いた土器がある。非常に多彩な色を用いている。
モチェのほうは、環境が良かったためか作られた土器で示されるものが多彩である。海の近くだから、土器に魚は当然として、リャマと人とを組み合わせたもの、トウモロコシと人を組み合わせたものなどがある。リャマと人では人は腹ばいに横になって乗っていたことが示される。これがインカ帝国まで続いていたとするならば、馬(アンデス人は知らない)にまたがってスペイン人が乗っていること自体おどろきだっただろう。
リアルな人間の顔を載せた土器もあるが、胴体は笑っちゃうほどシンプルである。こちらは形状的に奔放だが、色それほど派手でない。
また毛皮を模した贅沢なケープもあり、物資は豊富で経済的にも高レベルであったようだ。
<第4章 地域を超えた政治システムの始まり>
ティワナク文化(紀元後500年頃~後1100年頃)
ワリ文化(紀元後650年頃~後1000年頃)
シカン文化(紀元後800年頃~後1375年頃)
日本では、飛鳥から前2者で平安時代、シカン文化は室町時代。
この章の展示品が最も多い。多分インカの前だからスペイン人に所在が把握できなかったのではないか。また日本人学者が活躍していることもあるかもしれない。
この時代に、インカの道と呼ばれる高速移動路や、文字の代わりのキープ(糸の種類や縛り方で記録する方法)も整備されている。大規模石造建築と道路整備等の基盤技術のティワナク文化およびワリ文化、黄金の装飾品を生み出したシカン文化という特徴があるとのこと。
シカン文化はとってもお洒落で、金の胸飾りや装飾品、素敵な金のコップ、銀の皿などを作っている。
また土器もユニークな形状のものを作っている。子供をくわえた動物、超自然的パワーを持つ人の土器などである。
土器については、ティワナクやワリも負けていず、ジャガーなどの動物、また非常に大きく分厚い彩色のよい鉢などを作っている。この厚さは非常に焼くのが難しい。人間の顔の壷も焼いている。こんなのが並んでいたら不気味だろう。
<第5章 最後の帝国> チムー王国とインカ帝国
チムー文化(紀元後1100年頃~後1470年頃)
インカ文化(15世紀前半~後1572年)
チムー文化が平安後期から応仁の乱の頃、インカ帝国がそれから織田信長が政権を取った頃までである。
この時代は統一王朝であり、良く発達した道路網で広大な地域を支配していたが、それでも車はなく人力、リャマなどに直接載せる移動に頼っていた。そしてここまで文化が進展しても貨幣がなく物々交換であったというのは、信じられない。金製の工芸品などはどのように物々交換したのだろう。
黄金製品、土器、石像等のこれまで継承した文化を集大成したものとなっていたはずだが、それらを象徴する金や銀製品はごっそりとスペインに収奪された。そしてすべて鋳つぶされて、金はア純金に精製されてヨーロッパへと運ばれた。
チムー文化では、建物の入り口両側に立っていた戦士の像、2人の表情が異なっているがなんか親しみやすい。そして土器は兵士をかたどっているが、顔色が独創的。階段模様もちゃんと入っている。
インカの金製品と銀製品は小さなものしか残っていないそうで、小さな金製品の人物や銀製品のエビ等が展示されていた。なかなかにリアルな造形だが、かつての黄金のインカと呼ばれた大型のものが見たい。
土器は、これまでと同様の朱や茶色の彩色を引き継ぎ、多分宗教的な意味の図柄と幾何学文様を組み合わせたものだった。
なお文字の代わりとなった、キープとはこんなもの。そして文字がないということは紙もない。絵画という美術のジャンルもない。
<第6章 身体から見たアンデス文明>
アンデス文明では、生者の社会の隣に死者の社会があるとされた。その死者の社会を造っているのがミイラで、エジプトよりも早くミイラの文化があった。
そのミイラに対して従者をつけて、生活の援助をしたり、お祭りなどで輿で持ち出して歩き回ったりしたとのこと。
メキシコなどで骸骨を使ったお祭りがあったり、あの近辺にブードゥー教があるが、その影響なのかもしれない。
また頭蓋骨に孔を開けた治療や、頭蓋骨を拘束してその形を変えるようなことも行われている。頭の形で所属を見分けるためとか書かれていたが、コカを嗜好することで、人の形がぐにゃりと塑性する幻想世界を持っていたのかもしれない。
アンデス文明は、最初から狭い世界でも非常に多様な環境の世界で、孤立して存在してきた。そのため高度な社会成立は早かったが、その後はルネサンス前の西洋がギリシア・ローマ時代よりも退化したように、科学技術や社会科学的には停滞して、インカの最後の時を迎えたのだろう。美術品等のテクニックは洗練されていくが新技術はあまり見られない。その結果文明の衝突の時、片方が一方的に破壊されていく状況になったのだろう。
ユニークな宗教、そしてコカの葉があったことによる現実から幻想への逃避手段があったことも、文明的停滞に影響したのだろう。
日本は鎖国という人為的孤立を実施したが、それまでの大陸からの文化の流入を意識したうえでのことだった。また鎖国中も外部に対しては眼を光らせていて、新技術は出島経由でうまく取り入れている。だから開国時に破壊されなかった。
ただし、今違ったタイプの文明の衝突が起きる可能性を感じた。それは一般社会の人々と、狭いけれども高度なインターネット領域に住んでいる人の衝突である。
インカ帝国は168人のスペイン兵に敗北したが、一般社会は非常に高度にインターネットを操る少数の人に敗北する可能性がある。
(全部、私の写真でそろえようと思いましたが。撮りたくなかったもの、撮れなかったものを、3枚インターネットの本展特設ページから引用しました。>
開催場所:名古屋市博物館
期間:2018.10.06~12.02
訪問日:11.30
惹句:アンデスってなんです?
内容
・第1章 アンデスの神殿と宗教の始まり
・第2章 複雑な社会の始まり
・第3章 様々な地方文化の始まり
・第4章 地域を超えた政治システムの始まり
・第5章 最後の帝国 チムー王国とインカ帝国
・第6章 身体から見たアンデス文明
アンデス文明は、もしかすると4大文明よりも早く世界最古の社会が成立した所である可能性があり、その後も文字や車を持たない、そしてお金を持たないのに高い文明を築いていたという、ヨーロッパやアジアから見ると不思議な状態にあった。しかしスペインのやくざな少数の集団によって、その文明を受けついだインカ帝国が一瞬にして瓦解した。その過程にはナスカなど変わった遺跡が残っている。
土地柄も面白く、高さ6000mを越えるアンデス山脈の東は密林、西には砂漠から海岸と、バラエティに富んだ環境を持っている。
漫画では、手塚治虫が「三つ目が通る」の中にその文明を採り入れており、またインディジョーンズ クリスタルスカルの国で、変形させた頭蓋骨を扱っている。非常に謎の多い文明である。
断片的な展覧会等にこれまで行ってきたが、先史時代からインカ帝国までを通した遺品の展覧会であったので、訪問した。
ほとんどの部屋で写真撮影可能であり、またネットでも主要な作品の写真展示はなされていた。そういったカタログ用写真は、撮影条件がきっちりコントロールされていて非常にきれいに撮れている。それに自分なりの視線で撮影し対抗しようと思ったが、やっぱり難しい。
<第1章 アンデスの神殿と宗教の始まり>(紀元前3000年頃~前1500年頃)
メソポタミアでシュメール人が王国を作ったころ、アンデスでも大神殿が日干し煉瓦で作られたとビデオで遺跡を紹介(カラル遺跡)。人型の土器や神殿の装飾壁が展示されていたが、その中に骨製の笛があった。棒状の真ん中で吹き、左右の穴を押さえて音色を変えるとのこと。この時代に音階を作っていた。
<第2章 複雑な社会の始まり> チャビン文化(紀元前1300年~前500年頃)
日本の場合、弥生時代が3世紀まで続くが、そのずっと前に複雑な社会が成立している。高さ3000mという富士山クラスの所に、神殿や地下の街を作っている。
鳥に似た生物を線を刻んだ石板、石彫の頭、金の冠、そしてきれいに彩色された土器などが展示されている。
石板の生物は、ナスカの絵のようにも見える。石造りの頭は、神聖な扱いであったジャガーと人間の顔との間を結びつけるもので、手塚はじめ、いろんな漫画に登場する。金の冠で打ち出された顔は、下膨れのおじさんみたいでちょっと滑稽にも見える。少し褪せた金色なのは、純金ではなく合金であることによると思われる。(後述するスペイン人に収奪されたインカの金製品も合金製)
彩色土器の意匠はとても面白い。前述したように車がなかったため、ろくろもなく軸対象の土器はほとんど作られていない。これは取手の中を液体が通る様にしていて、日本にはその後の時代でもこんなタイプは見られない。色もちゃんとした釉があったものと思われる。なお自ら首を切っているという不気味な土器もあった。これは、生者の隣で並列に死者の世界があり、死者はそこで生きているということで、その両者のつながりを示すというもののようだ。
<第3章 様々な地方文化の始まり>
モチェ文化(紀元後200年頃~後750/800年頃)
ナスカ文化(紀元前200年頃~後650年頃)
第2章は統一政権であったが、この時代はペルーの赤道側海岸線のモチェ文化、南の高原側のナスカ文化が、並列に栄えている。一番最後の頃で、日本の奈良時代にあたる。(ナスカは奈良時代の前に滅んでいる。)
先にナスカについて述べる。こちらは地上絵で非常に有名だが、1300年以上も前の地上に書いた絵がそのまま残る程雨の降らない状況に環境変化してしまい、その後山地へと移動することになる。そこでは乾燥のために非常に簡単にミイラが出来てしまう。ミイラを覆った布には、精霊を示す図柄がカラフルに織り込まれている。
文字がない代わりにこのような図柄で情報伝達していたが、それを描く対象が土器へと変わっていった。
自然界の蜘蛛の紋様の土器、それから神や人の顔を描いた土器がある。非常に多彩な色を用いている。
モチェのほうは、環境が良かったためか作られた土器で示されるものが多彩である。海の近くだから、土器に魚は当然として、リャマと人とを組み合わせたもの、トウモロコシと人を組み合わせたものなどがある。リャマと人では人は腹ばいに横になって乗っていたことが示される。これがインカ帝国まで続いていたとするならば、馬(アンデス人は知らない)にまたがってスペイン人が乗っていること自体おどろきだっただろう。
リアルな人間の顔を載せた土器もあるが、胴体は笑っちゃうほどシンプルである。こちらは形状的に奔放だが、色それほど派手でない。
また毛皮を模した贅沢なケープもあり、物資は豊富で経済的にも高レベルであったようだ。
<第4章 地域を超えた政治システムの始まり>
ティワナク文化(紀元後500年頃~後1100年頃)
ワリ文化(紀元後650年頃~後1000年頃)
シカン文化(紀元後800年頃~後1375年頃)
日本では、飛鳥から前2者で平安時代、シカン文化は室町時代。
この章の展示品が最も多い。多分インカの前だからスペイン人に所在が把握できなかったのではないか。また日本人学者が活躍していることもあるかもしれない。
この時代に、インカの道と呼ばれる高速移動路や、文字の代わりのキープ(糸の種類や縛り方で記録する方法)も整備されている。大規模石造建築と道路整備等の基盤技術のティワナク文化およびワリ文化、黄金の装飾品を生み出したシカン文化という特徴があるとのこと。
シカン文化はとってもお洒落で、金の胸飾りや装飾品、素敵な金のコップ、銀の皿などを作っている。
また土器もユニークな形状のものを作っている。子供をくわえた動物、超自然的パワーを持つ人の土器などである。
土器については、ティワナクやワリも負けていず、ジャガーなどの動物、また非常に大きく分厚い彩色のよい鉢などを作っている。この厚さは非常に焼くのが難しい。人間の顔の壷も焼いている。こんなのが並んでいたら不気味だろう。
<第5章 最後の帝国> チムー王国とインカ帝国
チムー文化(紀元後1100年頃~後1470年頃)
インカ文化(15世紀前半~後1572年)
チムー文化が平安後期から応仁の乱の頃、インカ帝国がそれから織田信長が政権を取った頃までである。
この時代は統一王朝であり、良く発達した道路網で広大な地域を支配していたが、それでも車はなく人力、リャマなどに直接載せる移動に頼っていた。そしてここまで文化が進展しても貨幣がなく物々交換であったというのは、信じられない。金製の工芸品などはどのように物々交換したのだろう。
黄金製品、土器、石像等のこれまで継承した文化を集大成したものとなっていたはずだが、それらを象徴する金や銀製品はごっそりとスペインに収奪された。そしてすべて鋳つぶされて、金はア純金に精製されてヨーロッパへと運ばれた。
チムー文化では、建物の入り口両側に立っていた戦士の像、2人の表情が異なっているがなんか親しみやすい。そして土器は兵士をかたどっているが、顔色が独創的。階段模様もちゃんと入っている。
インカの金製品と銀製品は小さなものしか残っていないそうで、小さな金製品の人物や銀製品のエビ等が展示されていた。なかなかにリアルな造形だが、かつての黄金のインカと呼ばれた大型のものが見たい。
土器は、これまでと同様の朱や茶色の彩色を引き継ぎ、多分宗教的な意味の図柄と幾何学文様を組み合わせたものだった。
なお文字の代わりとなった、キープとはこんなもの。そして文字がないということは紙もない。絵画という美術のジャンルもない。
<第6章 身体から見たアンデス文明>
アンデス文明では、生者の社会の隣に死者の社会があるとされた。その死者の社会を造っているのがミイラで、エジプトよりも早くミイラの文化があった。
そのミイラに対して従者をつけて、生活の援助をしたり、お祭りなどで輿で持ち出して歩き回ったりしたとのこと。
メキシコなどで骸骨を使ったお祭りがあったり、あの近辺にブードゥー教があるが、その影響なのかもしれない。
また頭蓋骨に孔を開けた治療や、頭蓋骨を拘束してその形を変えるようなことも行われている。頭の形で所属を見分けるためとか書かれていたが、コカを嗜好することで、人の形がぐにゃりと塑性する幻想世界を持っていたのかもしれない。
アンデス文明は、最初から狭い世界でも非常に多様な環境の世界で、孤立して存在してきた。そのため高度な社会成立は早かったが、その後はルネサンス前の西洋がギリシア・ローマ時代よりも退化したように、科学技術や社会科学的には停滞して、インカの最後の時を迎えたのだろう。美術品等のテクニックは洗練されていくが新技術はあまり見られない。その結果文明の衝突の時、片方が一方的に破壊されていく状況になったのだろう。
ユニークな宗教、そしてコカの葉があったことによる現実から幻想への逃避手段があったことも、文明的停滞に影響したのだろう。
日本は鎖国という人為的孤立を実施したが、それまでの大陸からの文化の流入を意識したうえでのことだった。また鎖国中も外部に対しては眼を光らせていて、新技術は出島経由でうまく取り入れている。だから開国時に破壊されなかった。
ただし、今違ったタイプの文明の衝突が起きる可能性を感じた。それは一般社会の人々と、狭いけれども高度なインターネット領域に住んでいる人の衝突である。
インカ帝国は168人のスペイン兵に敗北したが、一般社会は非常に高度にインターネットを操る少数の人に敗北する可能性がある。
(全部、私の写真でそろえようと思いましたが。撮りたくなかったもの、撮れなかったものを、3枚インターネットの本展特設ページから引用しました。>