てんちゃんのビックリ箱

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デンマーク国立博物館 訪問の思い出

2020-02-20 00:23:43 | 美術館・博物館 等

訪問日 2015年7月19日

 コペンハーゲンへ行った時の記録を調べる中で、デンマーク国立博物館とコペンハーゲン美術館の両方に行き、記憶をごちゃまぜにしていることに気が付いた。
 ともに印象深い訪問だったので、それぞれ整理して書くことにした。

 まずはデンマーク国立博物館。ここには、デンマークの歴史にかかわるもの、世界各国の展示、そして特別展が展示されていたが、特別展が印象的だった。それぞれについて以下に示すが、特に第2次世界大戦におけるデンマークのユダヤ人救出活動について詳細を書く。
 

1.デンマークの歴史関連
 行く前に「太陽の馬車」というのが有名と聞いていた。どんなものか確認せずに行ったら、下記の大きな乗り物の前に人だかりがしていたので、たぶんこれだと思った。それが下記。柱の装飾や車輪も立派だったので、いいものを見たという印象を持って日本に帰った。


 WIKIを見たら本物は下記。青銅時代の作品。やっぱりちゃんと調べてから行かなければ。
 誰か行かれる人があれば、ぜひ見てきてください。



 時代を下ると、バイキングそして騎士の時代へと変遷していく。たくさんの武装品が展示されている。デンマーク王国はなかなか強かったらしい。
 バイキング、騎士道について知りたい人にも向いています。



2.各国の歴史の中から日本の展示。
 外国に行った時には、日本にかかわる展示を見ることにしている。東部アジアの中では、日本はエリアもちゃんと取り大事に展示されていた。騎士に対応するものとして日本の鎧も展示されていたが、最も眼を引いたのが、ひな人形の展示。ちょっと地味なタイプだが、健気で奥ゆかしさが感じられてよかった。




 

3.特別展 第2次世界大戦におけるデンマークにおけるユダヤ人救出活動

 フロア全体が暗く照明を落とされ、そこに大勢の人がうごめいていた。何だろうといってみたら、デンマークにおける第2次世界大戦の頃のユダヤ人救出活動に関する展示だった。
 当然ながら日本語説明はあるわけではなく、英語を適当読みし、その後夜に会食したデンマーク人達に教えてもらって分かったのは下記のこと。

(1) デンマークは1940年にナチスドイツから宣戦布告され、ほぼ戦闘もせず降伏した。ドイツは、軍を駐留させるだけでデンマークの自治を認めた(しかし、最終権限はドイツ)。デンマーク軍も温存され日独伊三国同盟に入ったが、自国防御だけで、ヨーロッパ戦線参加は個人の資格によって行われた。

(2) 1943年8月にドイツはデンマーク内のレジスタンスに手を焼いて、戒厳令を実施した。デンマーク政府はそれに対抗して総辞職。その結果ドイツ軍の直接統治となったが、官僚機構はそのままだった(王も存続)。なおこの時デンマーク軍も解散(軍としては連合国に敵対せず)。

(3) ドイツは1943年9月にデンマークのユダヤ人の強制収容所送りを決定、10月1日施行とした。それに対しレジスタンスの激化を恐れる軍政側要人からのリークがあり、国内にいる8000人のユダヤ人とその非ユダヤ人家族のほとんどを、中立国であるスエーデンへと国民あげてボランティアとして、逃亡を支援して亡命させた。自動車のない人のためバスを動かし、漁船を集めて海を渡った。しかし約500名は逃げきれず、収容所送りとなった。下図は船でスエーデンにわたる人達。
 デンマーク以外のフランス、オランダなどの他の占領国家では、ナチスの命令を受けたその国民による政府が、ユダヤ人の逮捕を行った。



(4) 収容所送りとなったデンマーク系ユダヤ人は、交渉によって赤十字が訪問できる厳しくないモデル収容所に入ることとなった。

(5) 戦争終盤の1945年、スエーデン赤十字がスカンジナビア系の強制収容所収容者を安全な収容所への移送を交渉した。行く先の最初はドイツ国内であったが、最終的にスエーデン国内となった。約15000人を対象として行われ、その中にデンマーク系ユダヤ人の500人も入った。
 2月から5月4日ドイツ降伏の日までの期間継続実施され、デンマーク経由となり、ほとんどの道程をデンマーク人が関与した。赤十字ということを明確にするためバスは白く塗られた(白バス)が、物資不足の中で連合国側の攻撃もあり、苦難の道だった。到着できた人は、スエーデン国家の保護下に置かれた。 下図は白バス。




(6) 最初に収容所送りとなったデンマーク系ユダヤ人の死亡者は約50名であった。その国に居住していたユダヤ人数を母数にすると、他のナチス占領下の国と比較して非常に少ない。国民がユダヤ人拘束に加担しなかったことと合わせて、デンマーク国家の誇りとすることである。

 会食時にデンマーク人は、これが可能となったことについて、下記を挙げた。

a. ヒットラーが金髪碧眼の多いデンマーク人に、ゲルマン民族の理想をみてあこがれたため、デンマーク国家に対して甘くなった。
b. 駐留したドイツ軍の上層部が、デンマークの住みやすさに好意を抱き、戦後ここに住みたいと考える人が出てきた。その結果リークやスルー、隠れた支援が多かった。

このような国家としての包容力と国民の貢献が、昨今のイスラム系難民多量流入への寛容さにも結び付いているとデンマーク人たちは話した。ただしイスラム系は国民の5%に近づき、またユダヤ人よりもはるかに異質と感じている。だからこの時の活動を見直すことで、イスラム系流入について考える良い展覧会だと、彼らは言った。

会食終了後も2時間ロビーに陣どって、この話、またイスラムへの見方についてデンマーク人同士の討論も含めて話を聞いた。私の偶然の博物館訪問がいい話題になり、デンマークの人々の素晴らしい人間性に触れることができてとてもいい経験だった。




コメント
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