てんちゃんのビックリ箱

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「近代の日本画」 愛知県美術館の企画展から

2020-09-13 08:21:16 | 美術館・博物館 等
 
 先日から 愛知県美術館の2020年度第2期コレクション展の中の企画展について記載しているが、今回は「近代の日本画」について記載する。これも残念ながら終了している。
 この展示会は、日本画を洋画に対抗して成立させようとした著名画家の作品約20点を展示したものである。
 友人と「日本画」の意味について話していたので、この機会にちょっと調べて整理した。それとともに、今回の展示内容について示す。
 

1.日本画について
 音楽の場合には、大きな音楽という芸術の塊の中でいわゆる邦楽はそれほど目立たずに存在している。それに対して絵画の場合には、日本画と洋画が半独立しているように扱われている。その違いは画材や顔料、描写のテクニックの違い程度で、最近では両者で非常によく似た絵画が描かれることもある。
このようにその国独特の絵画が特別扱いされているのは、日本だけの現象であるとのこと。
 日本では各歴史年代において、それまでの絵画手法が、その時代に海外から入った絵画技術を対比して扱うことがなされていた。これは歴史的にも繰り返されているらしい。
・奈良から平安
  唐絵:中国や朝鮮半島から渡来した技法や様式による絵画
  大和絵:日本的な主題のもの(宮中の様子や行事が主)
・室町時代
  漢画:宋元画様式の水墨画
  和画:それまでに日本国で描かれていた絵画(唐絵も含む)
・江戸時代中期
  唐画:南画などその時代の中国の画風の絵画
  和画:それ迄に日本国内で描かれていた絵画

 以上のようにこれまでは中国との交流が盛んになるごとにそこからの文化が流れ込み、それまでに国内で競合していた絵描きの流派が合同して対抗している。

 明治に入った時、政治体制が壊れて絵画のスポンサーが消えるとともに、美の価値観も消滅し従来の美術品が二束三文で扱われる状況となった。そして西洋からまるっきり新しい絵画が入ってきた。それも伝統的なものと変動しつつある印象派の絵画などというバラエティに富んだものであった。日本人はそれらを見て、多量の絵具を塗りたくっていることと描かれたものの奥行きや実在感に驚き、価値観が混乱した。

 この混乱から日本の美の価値観の再構築が始まるのだが、その中心にいたのは政府のお雇い外国人教師のフェノロサであった。本来は哲学の講師だったが、日本に来て美術にも関心を示し、日本の美術を非常に高く評価した。その過程である程度美術品の国外流出も招いたが、それが適度であったため、その評価が国際的に認知された。
 その中で彼は絵画に対して、「絵画とは『妙想(みょうそう)』と呼ばれる作家の理想が表現されたものであり、写実にとらわれずに自由かつ簡易に妙想を表すのに日本画の特徴は優れている」として、西洋画より勝るものとした。ただしこの際、南画と浮世絵は除くとした。そのうえで彼の意図したことは、「日本画の線と明暗と色彩を改良して、西洋の絵画に負けないだけの奥行き(遠近法)や実在感といった表現形式を備えさせること」だった。
(株式会社 野村美術のHPより)
 この考えに、政府関係者であった岡倉天心および日本の価値を高めたい政府が乗り、欧州の絵画技術を習得させる留学生派遣と並行して、従来からの日本の絵をそれに対抗できるように改革する方向へも力を注いだ。その結果「日本画」と「洋画」の2つの流れが確立した。
 
 このように成立したため、日本画の成立の初期は「西洋画に負けない奥行きや実在感」をいかにつけるかが課題となった。
 明治になった時点で美術の中心は、御用絵師の狩野派が集まっている江戸(東京)、また円山派や四条派などが集まっている京都であった。それぞれおよびその他の動きについて、下記に述べる。

2.東京における岡倉天心等の動向
(1)従来の絵画の刷新
 フェノロサおよび岡倉天心は、東京にいる狩野派の絵師である狩野芳崖および橋本雅邦に期待した。芳崖は刷新に大活躍したが短期間でなくなり、雅邦に託された。また天心は円山派の画家の川端玉章を東京に呼び出し、天心の作った東京芸術学校の教師とした。この2人は、これまでの画法をそれほど変えずに遠近法の表現や写実の導入に工夫を凝らした。



<橋本雅邦:秋景山水図>
(輪郭線は南画の手法だが、前景を濃く後景を薄くする手法の遠近法を適用した。)



<川端玉章:龍門之図>
(精緻に魚を写実するとともに、洋画のダイナミックさあ陰影を取り入れて、岩肌や滝の水の流れを描いている。)

 

(2)朦朧体の始まり
 天心の「空気の色を感じる」ようなリアルさという要求に対して、朦朧体という輪郭線のないぼんやりとした絵を描き出した。これは従来の東洋画のルールを逸脱したものである。

  

<横山大観:飛泉    菱田春草:紅葉山水>
(ともに東洋画特有の輪郭線を描かずに、面の塗りで対象を表そうとしている。また洋画の色のバリエーションに対抗して、岩絵の具の混色なども試みた。同じ朦朧体でも作者の個性が出ている。)


3.京都における竹内栖鳳の活動
 栖鳳は四条派の画家であるが、京都におけるフェノロサの講演に共感し、実在感を高めるため徹底的な写実を試みた。そして「動物を描けば、その匂いまで描く」という達人となった。



 

<竹内栖鳳:狐狸図 およびその部分拡大>
(徹底した写実と光線を意識した彩色という西洋絵画の特質を受け入れつつ、それを日本の伝統の生命感や書き手の精神を込めた筆さばきで書くという両者の融合を目指した。)



 彼は多くの弟子を育てたが、その中に橋本関雪がいる。彼は同様に写実を徹底するとともに、フェノロサがマンネリとして否定した南画の表現主義の技法を取り入れ、新南画として復興させた。



<橋本関雪:猿猴待月>
(四条派の写実を徹底しつつ、南画(文人画)の精神性を生かして、猿に人間のような月を待つという情緒を持たせた。)


4.その他
 速水御舟は、東京生まれだが個性的な画塾で学び、天心等の影響は受けなかった。しかし、徹底的な写生と細密描写を得意とし、象徴的・装飾的表現へと進んだ。



<速水御舟:西郊小景>
(この絵では、写実を基調にしつつ降り注ぐ光の表現に気を配り、印象派風の色彩を適用している。)


 小林古径は、速水御舟が学んだ塾から出た人に学んだ。写生とともに軽妙かつ精密で生き生きとした線を特徴としている。






<小林古径:洗濯場(その1)> 
(イタリア留学中の経験を帰国後に描いたものだが、東洋画として従来にない構図に色彩、そして洗濯場の女性の動きを感じることができる線である。)



5.おわりに
 今回各作者1点だったが、県美術館は日本画の主要人物の作品を、カタログ的によく集めているなと思った。また学芸員の丁寧な説明に感謝したい。
 他の芸術と違って絵画は、新しい流れが国内に導入されるごとに、それ以前の絵画が集まって対抗している。これは多分絵画を描くことにおいて画材のすそ野が広く、ある程度の産業が成立していて、それを経済的に守る必要があるからだろう。
明治の「日本画」の成立にはそれに加えて、日本のアイデンティテイを守ろうという強い意志が働いた。そのためにも日本画の弱点をカバーして世界の絵画に対抗する必要があり、明治の日本画家たちは一生懸命新技法を編み出した。
 
 現在は明治の頃の理屈で日本のアイデンティテイを頑張る必要性はないし、絵画の世界で日本の絵は十分認知されたのだから、日本画の縛りは解き大きな絵画の中で独自の表現を持つジャンルとして生きていったらいいのではないかと思う。確かに画材は高価であり、技法は難しいが、芸術家たちは表現したいものに対する最適な表現方法を自分で選ぶだろう。


コメント (4)
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