・展覧会名:大雅と蕪村 文人画の大成者
・場所:名古屋市博物館
・期間:2021年12月4日~2022年1月30日
・惹句:ふたりの楽園にようこそ
・訪問日:2022年1月9日
・展示内容
プロローグ:文人画とは
第1章:文人画の先駆者 ― 彭城百川
第2章:早熟の天才絵師 ― 池大雅
第3章:芭蕉を慕う旅人 ― 与謝蕪村
第4章:『十便十宜図』の誕生
第5章:蕪村の俳画 ― 尾張俳壇と蕪村
第6章:輝く大雅 ほのめく蕪村 ― ふたりが描く理想の世界
第7章:尾張の文人画 ― 丹羽嘉言
エピローグ:歴史となった大雅と蕪村
この展覧会は、文人画の巨匠である池大雅と与謝蕪村が尾張の豪農の依頼を受けて共作した『十便十宜図』をキーとして、そのそれぞれの作品を示すとともに、両者が共作にいたった経緯、すなわち江戸時代中期の尾張の文化の高さを紹介しようとするものである。
両者の作品はそれなりにいいものが集められているが、4つに区分された期間に分散されて、一度で見る作品はそれほど多くない。それに対して尾張に関わる資料は非常に多量で充実しており、確かに全体としては博物館における資料展としてふさわしいと思う。
ここでは池大雅、与謝蕪村の作品で興味を持ったもの、そして『十便十宜図』について述べる。
1. 池大雅の作品
池大雅の存命期間は享保8年(1723年) - 安永5年(1776年)。京都に生まれ学びの環境に恵まれ、10歳にして中国の書を読み書きし神童扱いされた。その流れの中で教養人の余技とされる文人画に取り組み、日本の狩野派等の技術も取り込んで若くして大家となった。
ここでは中国の風景を想像して描いた絵をまず示す。文人画そのものは日本に来ていなかったので、彼は中国の書籍等を学ぶとともに、日本の狩野派などの技術を取り入れ日本独自の文人画を描いた。
中国でもよく描かれている湖の風景の絵画であるが、山の形は中国の絵に近いけれどもやや日本風に柔らかくなっている。樹々は日本の絵に近い。
西湖勝覧図屏風 1759
彼は座学だけでなく、旅をして文人として知識を得て写生を行った。次の絵は浅間山への旅行をもとに描いたもので、山の形は日本の風景そのものになっている。
浅間山真景図
3枚目の絵画は、第6章に「かがやく大雅」と題されていることを象徴する作品だと思う。金地に中国の絵のようだが、山や樹々など日本画っぽい感じで楽しそうに描いている。彼にとっては、書籍等からの憧れの中国と実感のある日本とが重なった楽園の姿だったのだろう。これは国宝である。。
楼閣山水画図屏風(上が左、下が右)
2. 与謝蕪村の作品
与謝蕪村の存命期間は享保元年(1716年) - 天明3年(1784年)で、池大雅より7歳年長である。俳諧に志し松尾芭蕉に憧れて各所を彷徨い、やっと42歳にして京都に落ち着いた。俳諧が主だが絵画は独学でその頃ようやく名を成しつつあった。ただし俳諧よりも絵画で生活をしていたとのこと。彼の文人画は俳諧の素養を基盤とするものであった。
先ほどの金地の池大雅の作品の隣に、次の銀地の与謝蕪村の作品が並べられていた。(ラッキーにも期間中12日間しか並べられていない。) この絵が展示されている蕪村の中で最も派手な絵なのだが、銀地を使っていても非常におとなしい感じがする。それは非常に丁寧にけれんみなく描かれていることによると思う。静けさを感じる。これが、第6章で「ほのめく」と言われた理由とおもう。この絵の山は中国風のようでいて細かくみると全然違う。
山水図屏風
次に示すのは、蕪村が尾張の俳諧の友人に送った書簡の文末に描かれた絵である。鳥獣戯画の流れをくむような軽妙さがある。
井上士朗・加藤暁台宛書簡(1778)
次の一枚は、富士を描いた作品だが、日本の風景の優しさを感じる。そして蕪村にとっての楽園は、俳諧の中で純化された日本の風景だったのだろうと思う。これは重要文化財
富嶽列松図
3.『十便十宜図』について
1770年頃に池大雅が尾張の豪商から清の劇作家李漁の詩「十便十宜」にちなんだ画集を描いてほしいとの依頼を受けた。大雅はその頃第一人者であったが、半分をその頃名前を上げだした蕪村に託すことを提案し、十便を大雅、十宜を蕪村が描くこととなり、1771年に完成した。現在は国宝となっている。
十便とは、李漁の別荘の10種の便利を述べたものであり、画集には自然とともに生きる人間の豊かさが描かれている。十宜とは10種の宜い(よい)ことを述べたものであり、日々変化しまた移り行く自然の美しさが描かれている。この主題自体が、中国の文人にとっての楽園を示すものであり、ある意味 この2人の楽園のイメージを問うている
ともに色紙サイズの絵が本になって綴じられていて、展示用のページが開けられている。。
私が行った時は、大雅の方は浣濯便(別荘の中に川がひかれているので、洗濯に便利)、蕪村の方は宜晩(月の明かりに照らされる夜はよい)のページが開かれていた。ともに漢詩とそれに対応する絵が描かれている。両者はかなり描き方が似ているが、大雅の方が、線が伸びやかに感じる。一般的評価もそうなっているようで、絶頂期の大雅に対し発展途上の蕪村という位置づけになっている。
池大雅 浣濯便
与謝蕪村 宜晩
そして全体を代表するものとして池大雅の釣便(酒肴が必要になったら家の窓から釣りができる)をあげている。確かにこの絵は人々の楽しさが伝わってきて素晴らしい。
池大雅 釣便
しかしこの後大雅は7年で亡くなり、蕪村はこの共作で学んだ大雅の技術を吸収し、その後13年間、傑作を生み出し続けた。上で蕪村作で並べたものはこの共作以降の作品である。。
4.終わりに
大雅と蕪村はともに文人画の大家とされるが、基盤が異なり大雅は中国の書籍から学んだ知識、蕪村は俳諧であることがわかった。共作した「十便十宜」は大雅のフィールドであり、日本の文学が対象だったらどんな感じになったのだろうと思う。
また蕪村は年上なのに、高名で自分より技術の高い大雅との共作をどういった思いで行ったのだろう。でも高齢になっても求めれば技術は伸び、長生きすれば成果は積みあがっていくことを示した。長生きはするものだ。
十便十宜図は川端康成が非常に気に入り、家の購入費をそれに充てて入手した。康成はほかにも浦上玉堂のやはり国宝となった絵画を入手している。彼の眼力は凄いと思うとともに、国宝2点を身近に置き、眺める生活ってどんな感じだろうと思う。
文人画というジャンルは、明治に入ってフェノロサや岡倉天心等から美術の埒外であるとの攻撃を受け、廃れてしまった。フェノロサは「妙想が文学的にすぎて真当の絵画のそれではない」と批判した。その頃の作者の作品がほとんどの場合に絵画と言葉がセットで、絵のパターンが広くなく絵が小さい(この2人は大きく描くことができたが)ことに、純粋絵画を追求している人々我慢できなかったのだろう。