てんちゃんのビックリ箱

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横山大観展 感想

2018-04-17 00:47:38 | 美術館・博物館 等

展覧会名:生誕150周年 横山大観展
惹句:オール大観。代表作を網羅した10年ぶりの生誕記念大回顧展です。
場所:東京国立近代美術館
会期:2018.4.13-5.27 (その後 京都国立近代美術館)
訪問日:4月13日

 4月13日に東京出張が入った。午後の打ち合わせとなったが、ラッキーにも向こうの担当者が開始を午後3時としてくれたので、どこか美術展を見ようと思った。それで調べてみると、この日から横山大観展。あまり調べずに行ったが、ついて展示リストを見ると、ほぼ5月6日までの前期と、それ以降の後期でガラリと展示替えがなされることがわかった。そして私が特に見たいと思っていた作品は後期に集中。東京は無理なので、京都はどうなっているのか調べなきゃ。

 でも前期でも十分作品は充実している。会場は3カ所に分かれている。第一会場が、前半が明治時代の作品、後半が大正および昭和時代の作品となっている。第2室は巻物「生々流転」のみを伸ばして展示している。そして第3会場は2階に上がり、昭和のほぼ戦後の作品を展示している。

・第一会場 前半
(1)明治時代の大観
 入った所に「屈原」が掲示されている。そしてもう一方の壁に「無我」。岡倉天心に師事し菱田春草らとともに朦朧体で絵画界に殴りこみをかけた頃の絵。ともに2回目、大学の頃のことで、その時はまだ知識が足りず、なぜ朦朧体が革命的なのかがわからなかった。今はその線でなく面で表現していくという意味が分かる。それとともに、面の中にグラデーションがありいろいろとニュアンスをつけているのもわかる。特に顔の表情の作り方がすごい。屈原の怒った顔(これはルール違反と言われたらしいが)、無我の子供の、無心の顔が生きいきとしている。

まず屈原


そして無我


 確かにオール大観で、紹介したいものは非常にたくさんある。
 茶目っ気たっぷりで、世界の聖人を悩める人の周りに並べた「迷子」、ハレー彗星を描いた「彗星」、そしてナイヤガラの滝と万里の長城を並べた「瀑布」。 自分のスケールの大きさを主張し、鼓舞しているようである。また「山路」という華やかな色の絵もある。
<下図は迷子>



 そして「白衣観音」、大観の女性は細い顔ではなく割と四角い顔で、ひ弱さを感じさせない強い顔が多く、身体つきもしっかりしている。大観にとって女性は逞しい存在だったのか。

 

・第一会場 後半
(2)大正時代の大観
 大正の始まりで、大観は44歳。明治の最後のあたりから画材が高価になってくる。きっとスポンサーが安定したのだろう。
 ここで紹介したいのが「瀟湘八景」(東京国立博物館版)。 構想や形、色の使い方などとても自由である。一枚目の山と人との対比なんか素敵だし、二枚目の伸びやかな帆の曲線と優しい色、そして3枚目の大雨の中で曲がった大木と影の小屋の頼りなさ、出来るだけ新しい風景を新しい発想で書こうとしている。この絵や周辺の絵を見て、東山魁夷の唐招提寺御影堂障壁画展の絵は、これの範囲を越えていないと思った。

  



 そして「焚火」。夏目漱石が「気のきいたような間のぬけたような趣」と評して、個性の独自性を褒めた絵である。焚火の燃え方が速水御舟に似ている。抑えた色合いの中で、立つ人と座る人が話しているが、様式的な顔だけれども表情があり、こんな話かなって場面を想像できて楽しい。特に座っている人の炎の先を見るような眼が魅力的。でも 今の人たちにとってはこの遅く流れている時間を理解できないかもしれない。


 それとは別に、岩絵の具を油絵のようにごつごつと厚く線を描くようなものも描いている。 「秋色」 この左側の葉をくまどるオレンジの線なんか大観が嫌った洋画のフォービズムの線に似ている。今回の中では、私は新発見という意味でこの絵が一番好き。



 そしてこの頃から日本としての美を書くということで、富士そして海という画題へと入っていく。
 この時代に書いたものとして屏風仕立ての「群青富士」。抽象というか装飾画というか、でもお金をかけた力強い新しい表現を狙った作品。色と形の対比がくっきりとしていて、とても明るい伸びやかな作品。

 


 それとともに、デザイン的な表現を先取りするかのような、小品の富士。霊峰十趣、そのうち「夜」と「秋」を示す。ともに稜線のみの絵だが、前者は富士が輝いていてとてもロマンチック。そして後者は、青に白という雪の力強い厳しさを感じる。

 


(3) 昭和時代の大観
 もともと水戸藩の出身で皇国思想を持っていたが、皇室に献上できる立場になったとともに軍国主義の推進者と関わりが深くなった。利用されたか利用したか、その思想に基づいた富士や山→陸軍、海→海軍を連想させるような作品が多くなる。
 皇室献上品の代表例が「朝陽霊峰」。2種類の金泥を贅沢に使った屏風の壮大な絵である。最高のもので最高のものを描くということで、誇りに思いまた得意の絶頂であったろう。純ですごいのだけれども、時代の暗部を見る眼もあってもいいと思う。



 山と海の絵も、一点ずつ掲載しておく。山は「龍踊る」。海は「波騒ぐ」。
ただし別にそれとは異なる、純粋に自然の美をたたえる絵も描いている。しかし、残念ながらめぼしいものは後期となっている。

 


第2会場
(4)生々流転
 全長40mの巻物が一直線に伸ばされ、その横を観客がゆっくりと進んでいく。書き込みの多い所と少ない所、変化する所で移動する速度が変わる。その外側をめんどくさくなった人が、説明のある所のみを見ていくといった感じで早く流れていく。これは最も長い巻物へ挑戦したいということで、それを森に落ちた水滴から、下って海に入り、そしてまた龍とともに雲となって空へあがるという物語を水墨画で描いたものである。
 きっと大観はこの巻物を見せた時、この人の動きを自分の思惑と照らし合わせて楽しんだに違いない。
 私はくっついたラインで基本はゆっくりと見ていった。木の描き方や水の流れの描き方を色々変化させて面白い。そして特に面白いのは、動物や人間の登場である。特に人間の小さな顔の描き方が昔の絵巻物の顔と同じで面白かった。そこでルール違反であるが、3回後戻りし横入りした。うちの配偶者基準なら、ある意味単調だから(変化を感じなければ)外側の時々入りこむラインに入っただろう。


第3会場
 第3会場の展示はわずかで、大人しい作品になっている。大人しいものの代表が有名な「霊峰飛鶴」であり、きれいすぎるような作品で終戦後しばらく経っての日本の心を和らげるべく描かれたものと思う。



しかし85歳になっても元気な作品もある。それが、「或る日の太平洋」。 富士山を背景に、画面中の龍が慌てるような大波を描いている。





 この美術展はやはりとても面白く、大観のスケールの大きさを感じる。そして一生懸命さで、スケールとジャンルは違うが草間彌生ともつながるものを感じた。やはり見るべき展覧会だが、後期分の展示を見るチャンスがあるかどうか・・・ 
 
 私の印象では、大観のもっとも面白いのはやはり大正年代。朦朧体以外のいろんな手法も身に着け画材費の制約もなくなるとともに、表現対象範囲拡大への意欲も継続している。明治時代のチャレンジ精神旺盛な若さも好きだ。
 それに対し昭和になると、今回見た範囲では思想から自分で制約を作っているような感じがした。 もしかすると後期の「紅葉」や「夜桜」を見ると それがガラっと変わるかもしれない。 それが残念だった。

 また、横山大観が富士を日本の美の象徴として描いたとすると、約40年ずれている岡本太郎が富士を八の字文化の象徴として攻撃していたこととの関係が気になった。彼は大観存命中に大家となり、それが書かれた著書「今日の芸術」を大観がなくなる2年前に出版している。
 お互いがどう意識していたか 知りたいとおもった。 

なお 2階の隅っこの階段を上がった3階には、近代美術館の通常展示があり、特に横山大観と関わる画家の集中展示がなされているが、非常にわかりにくい。 特別展出口に、明確な案内を掲示すべきである。
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