展覧会名 開館25周年記念
長沢芦雪展 京のエンターテナー
場所 愛知県立美術館
期間 2017年10月6日ー11月19日
訪問日 11月11日
内容:第1章 氷中の魚:応挙門下に龍の片鱗を現す
第2章 大海を得た魚:南紀で筆を揮う
第3章 芦雪の気質と奇質
第4章 寛政前・中期:充実と円熟
第5章 寛政後期:画境の深化
東京および関西で、集客の大きな展覧会を実施しているが、名古屋ではユニークな作家の長沢芦雪の展示会を開催している。そして愛知県美術館はこの展示会開催後改修のため 1年以上閉鎖することになっている。
芦雪は江戸時代の京都の画家である。写実を非常に重視した丸山応挙の弟子として、その技術をきちんと受け継ぎつつ、独自の奇想を導入した人で、応挙が亡くなった後4年で45歳で亡くなったため、独立した活動期間が短く、名が広がらなかったといわれる。しかし伊藤若冲を集めたことで有名なプライスさんが、本当は芦雪を集めたかったと言ったということである。
まず第1章が応挙からの学びを示し、第2章で応挙から離れて紀州に赴いての才能の爆発、第3章以降がまた京都に戻っての活動状況で、第3章が応挙と芦雪の違い、第4章が丸山チームの中での活躍を示すとともに家族を亡くしたこと等による絵の深みが増したとされる(充実と円熟と表現するとは)。そして第5章では、応挙から離れての独自のたかみの絵画を確立し、また爆発することを期待させつつ亡くなったことを述べている。
この中で、第2章の紀州の活躍、応挙の代理で32歳前後に2年間行ったが、そこでなされた個性全開の作品が凄い。応挙の流れは基本だけで、自在に自分の表現したいものを描いている。
それが、また京都に戻るとまた個性は見せつつも 応挙に似たような絵を描きだす。この2人の関係が非常に興味がある。
以下に主要な作品について示す。
第1章からは、「虎図」。
応挙風の写実に中実に描かれているように見える。しかし本来は虎を日本で見ることはできなかっただろう。だから、これまでの国内の絵を眺め、応挙が写実風に描いたものをお参考に描いたに違いない。その中で、貫禄ある武者が相手の力量を見通すかのような眼、そして意匠的な縞模様がとても面白い。
第2章では、本当に面白い絵が多い。その中で紀州無量寺の障壁画が、配置を再現して展示されており、これが展覧会の目玉になっている。特に向かい合う「龍虎図」が有名で、非常に面白い。両方の顔とも迫力があるが、ある意味とてもかわいらしい。そして体はしなやかで躍動感を持っており、見ている人の体に絡みつきそうである。そして、お互いの眼ともやぶ睨みになるように描かれていて、その座敷に座る人は、両側面からの視線を感じる。
もう一枚、「寒山拾徳」の図。風狂人の僧を描いたものだが、これはもう破天荒。突き抜けた明るさが、ここにある。思うに、京都のような貧富の激しく、寒さや飢えによる死人が簡単に出てしまう京都から、暖かい紀州に来たことで、風狂人としても生きていけるような環境がそこにあると思い、勢いよく描いたのではないか。それとともに、宗教心(禅宗)を高めている。
第3章では犬や鹿の絵で応挙と芦雪を比較し、応挙は対象を写実することに忠実だったけれども、芦雪は対象に乗り込んで、自分の気持ちを対象が表現するように描くと評価されている。確かに、前述の虎の絵などそう感じる。
そして芦雪の犬は、「薔薇蝶狗子図」に見るようにとてもかわいい。
また筆ではなく指を使った描き方など、洋画にもつながる新しいタッチの身に着け、特に新しい視点での禅画を描いている。(「牧童吹笛図」)
第4章、第5章では、第2章ほどの破調は見られないが、大胆な構図など新機軸がどんどん取り入れられている。
「富士越鶴図」では、写実的な鶴と縦長にデフォルメされた富士山が組み合わせれ、ややシュールな雰囲気を漂わせている。
また、象と黒牛の屏風「白象黒牛図屏風」。襖に納まりきれない巨体をデフォルメして描くとともに、象にはカラス、黒牛には仔犬を置き、大きなもののサイズそして「気は優しくて力持ち」というイメージの強調を図っている。とても眼が優しい。
京のエンターテナーと惹句が生まれたのは、観客が見ている前で、ショウとしてすいすいと謎かけをするように、洒脱な絵を描き楽しませたことからきている。そしてそれが引き出しが多く、高い技術に裏打ちされた、見ている人を納得させる外れのない作品だったからだろう。
展覧会にいる間は第2章での紀州の絵画群に圧倒されて、これだけ応挙と離れた素晴らしい絵画を描き評価されたのに、なぜ応挙の元に戻ったのだろうと思った。
しかし帰宅後画集を眺めて、彼自身はその時の評価に浮かれることなく、絵画技術および絵心において不十分さを感じ、応挙をベンチマークにしつつ、応挙一門としての立場やチャンスを利用し、自分の能力を高めていこうと思ったのに違いない。
応挙は、自分とは異質の高い能力を持った弟子の扱いに苦労したに違いない。
応挙から解き放たれ、芦雪がもっと長生きをしていたらどんな絵を描いていただろうか。本当にとても興味がある。
応挙が62歳、若冲が84歳、北斎が89歳、広重が61歳まで生きたことを考えると45歳は確かに短い。寿命もやはり芸術家の才能の一つなのだろう。
長沢芦雪展 京のエンターテナー
場所 愛知県立美術館
期間 2017年10月6日ー11月19日
訪問日 11月11日
内容:第1章 氷中の魚:応挙門下に龍の片鱗を現す
第2章 大海を得た魚:南紀で筆を揮う
第3章 芦雪の気質と奇質
第4章 寛政前・中期:充実と円熟
第5章 寛政後期:画境の深化
東京および関西で、集客の大きな展覧会を実施しているが、名古屋ではユニークな作家の長沢芦雪の展示会を開催している。そして愛知県美術館はこの展示会開催後改修のため 1年以上閉鎖することになっている。
芦雪は江戸時代の京都の画家である。写実を非常に重視した丸山応挙の弟子として、その技術をきちんと受け継ぎつつ、独自の奇想を導入した人で、応挙が亡くなった後4年で45歳で亡くなったため、独立した活動期間が短く、名が広がらなかったといわれる。しかし伊藤若冲を集めたことで有名なプライスさんが、本当は芦雪を集めたかったと言ったということである。
まず第1章が応挙からの学びを示し、第2章で応挙から離れて紀州に赴いての才能の爆発、第3章以降がまた京都に戻っての活動状況で、第3章が応挙と芦雪の違い、第4章が丸山チームの中での活躍を示すとともに家族を亡くしたこと等による絵の深みが増したとされる(充実と円熟と表現するとは)。そして第5章では、応挙から離れての独自のたかみの絵画を確立し、また爆発することを期待させつつ亡くなったことを述べている。
この中で、第2章の紀州の活躍、応挙の代理で32歳前後に2年間行ったが、そこでなされた個性全開の作品が凄い。応挙の流れは基本だけで、自在に自分の表現したいものを描いている。
それが、また京都に戻るとまた個性は見せつつも 応挙に似たような絵を描きだす。この2人の関係が非常に興味がある。
以下に主要な作品について示す。
第1章からは、「虎図」。
応挙風の写実に中実に描かれているように見える。しかし本来は虎を日本で見ることはできなかっただろう。だから、これまでの国内の絵を眺め、応挙が写実風に描いたものをお参考に描いたに違いない。その中で、貫禄ある武者が相手の力量を見通すかのような眼、そして意匠的な縞模様がとても面白い。
第2章では、本当に面白い絵が多い。その中で紀州無量寺の障壁画が、配置を再現して展示されており、これが展覧会の目玉になっている。特に向かい合う「龍虎図」が有名で、非常に面白い。両方の顔とも迫力があるが、ある意味とてもかわいらしい。そして体はしなやかで躍動感を持っており、見ている人の体に絡みつきそうである。そして、お互いの眼ともやぶ睨みになるように描かれていて、その座敷に座る人は、両側面からの視線を感じる。
もう一枚、「寒山拾徳」の図。風狂人の僧を描いたものだが、これはもう破天荒。突き抜けた明るさが、ここにある。思うに、京都のような貧富の激しく、寒さや飢えによる死人が簡単に出てしまう京都から、暖かい紀州に来たことで、風狂人としても生きていけるような環境がそこにあると思い、勢いよく描いたのではないか。それとともに、宗教心(禅宗)を高めている。
第3章では犬や鹿の絵で応挙と芦雪を比較し、応挙は対象を写実することに忠実だったけれども、芦雪は対象に乗り込んで、自分の気持ちを対象が表現するように描くと評価されている。確かに、前述の虎の絵などそう感じる。
そして芦雪の犬は、「薔薇蝶狗子図」に見るようにとてもかわいい。
また筆ではなく指を使った描き方など、洋画にもつながる新しいタッチの身に着け、特に新しい視点での禅画を描いている。(「牧童吹笛図」)
第4章、第5章では、第2章ほどの破調は見られないが、大胆な構図など新機軸がどんどん取り入れられている。
「富士越鶴図」では、写実的な鶴と縦長にデフォルメされた富士山が組み合わせれ、ややシュールな雰囲気を漂わせている。
また、象と黒牛の屏風「白象黒牛図屏風」。襖に納まりきれない巨体をデフォルメして描くとともに、象にはカラス、黒牛には仔犬を置き、大きなもののサイズそして「気は優しくて力持ち」というイメージの強調を図っている。とても眼が優しい。
京のエンターテナーと惹句が生まれたのは、観客が見ている前で、ショウとしてすいすいと謎かけをするように、洒脱な絵を描き楽しませたことからきている。そしてそれが引き出しが多く、高い技術に裏打ちされた、見ている人を納得させる外れのない作品だったからだろう。
展覧会にいる間は第2章での紀州の絵画群に圧倒されて、これだけ応挙と離れた素晴らしい絵画を描き評価されたのに、なぜ応挙の元に戻ったのだろうと思った。
しかし帰宅後画集を眺めて、彼自身はその時の評価に浮かれることなく、絵画技術および絵心において不十分さを感じ、応挙をベンチマークにしつつ、応挙一門としての立場やチャンスを利用し、自分の能力を高めていこうと思ったのに違いない。
応挙は、自分とは異質の高い能力を持った弟子の扱いに苦労したに違いない。
応挙から解き放たれ、芦雪がもっと長生きをしていたらどんな絵を描いていただろうか。本当にとても興味がある。
応挙が62歳、若冲が84歳、北斎が89歳、広重が61歳まで生きたことを考えると45歳は確かに短い。寿命もやはり芸術家の才能の一つなのだろう。