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天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

メディアリテラシー?

2015-07-03 14:48:38 | 時事

日本神道の源流は琉球神道に見る事が出来る。つまり『いちゃりばちょーでー』
(一度会ったらみな兄弟)は
『八紘一宇』の精神に通じる。
琉球があるから日本があると言える。

江戸時代は薩摩藩の密貿易の拠点であったことも否定出来ない。過酷な身分制度の下、小作状態の農民は収穫率向上の為の生産拡大意欲も上がらず、離島は本島の3倍の年貢であったらしい。

「宮古島島民遭難事件」は、日清修好条規の結ばれた1871年(明治4年)、
琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、
台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のため脱落説あり)、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。
現在の日本史教科書では、「琉球漂流民殺害事件」と記述。

琉球王国を450年とするならば教科書通り琉球漂流民殺害事件が正確だろう。
翌明治5年には琉球藩となり、12年には沖縄県となる。

疎開さえ上手くいかず、県民を巻き込んでの沖縄戦と菊水作戦三ヶ月間の激戦の末米軍の占領を許した。
そもそも日本人が沖縄の歴史に無頓着であることに沖縄問題の元凶がある。

普天間に滑走路が作られた時民家は3.4軒しかなかった。これに対し沖縄は4.5千人が居住していたと主張する。

この見解の違いをそのままに辺野古に反対と戦略上重要拠点と抑止の三つ巴の基地問題という出口のない迷路に迷い込む。

奇しくも中韓沖縄の歴史認識の食い違いは朝日新聞が深く関わって表面化する。
沖縄戦を県民目線で描く鉄の暴風は朝日新聞から出版されている。



沖縄タイムスと琉球新報への恫喝とまで言われた百田尚樹の発言、問題は県外の日本国民が思っていることを代弁した百田氏を招いた
自民党若手の木原稔青年局長が処分され辛うじて鎮静化させた。

メディア、野党による百田氏への言論弾圧にとられかねない抗議は自民党若手へ向けられる。
表現の自由、言論の自由は権力に対して向けられ、その監視役として重要な意味を持つ、
この意味を曲解して個人(百田氏)に対する言論の自由は、濫用すると、名誉毀損罪・侮辱罪に抵触してしまう。それを見越しての自民だ。
大西氏の主張は切り取られ、言論弾圧とされ
仕込み発言もした木原氏を処分せざるを得ない党と政治バランスにも問題がある。

なら国民が高らかに声を上げるべきだが大半の国民は無頓着だ。攻撃する機能を日本国民は削がれている、だから反政府という内輪もめしか盛り上がらなくなる。
やはり、琉球王国と戦場と化した歴史認識が両者が歩み寄れない基地問題として噴出している。

沖縄二紙が百田氏発言を受け記者会見で自民党を批判した。
安倍対翁長の単純過ぎる構造が平行線のままである事に県民置き去りのまま小競り合いが続く。
歴史認識の相違に端を発した『饅頭怖い』ならぬ『基地怖い』だ。
中韓沖奇しくも王朝滅亡に関わりをもつ日本という共通点が融和を阻むのかもしれない。

沖縄は二紙以外の新聞が弱い、県民も二紙の死亡欄しか見ていないとか、県民が二紙の偏向に大分以前から気付いている証しだ。
つまり沖縄の癌は二紙と大学と翁長を押し上げなだれ込む左翼プロ市民だ。

戦後日本は占領政策に託けて愛国心を奪い取り、ナショナリズムを排してきた。国粋主義と同時に国民主義さえも投げ出した。
日本軍、帝国主義の武装解除は革命を意味し反政府的左翼思想を蔓延させ主権を回復した。英霊を亡霊と感じその支柱となった天皇を象徴という無機質なものに変えた正に冒涜である。




山崎雅弘氏
戦史/現代紛争史研究家。1999年から『歴史群像』誌に毎号寄稿中(計100本以上)。『歴史人』誌にも不定期で寄稿。Amazon Kindleで電子書籍の個人出版事業を展開中。

ツイッターで百田尚樹氏を批判的に分析した山崎さんのツイートを見かけたので、抜粋した。以下山崎雅弘さんのツイートのコピーだ。

『慰安婦問題も南京虐殺も「捏造」で、満洲事変は「コミンテルンの謀略」で、盧溝橋事件は「支那の挑発」で、真珠湾攻撃は「ローズヴェルトの陰謀」で、日本国憲法は「占領軍の押し付け」だという歴史認識を持つ人間は、国会議員を含め、現実の政治問題でも同様の「陰謀論」で特定の敵を創作し攻撃する。

沖縄の外国軍基地に反対するのは「本土から来た人間だけ」で、沖縄県知事は「中国の手先」で、米国在住の日本人の子供は「朝日新聞の捏造報道のせいでいじめられ」ており、日本の名誉が失墜しているのは「朝日新聞のせい」だという。内輪で繰り返すうち、それが「真実」だという共通認識ができあがる。

百田尚樹氏の「普天間基地は田んぼのなかにあった。周りには何も無い。そこに商売になるということで住みだした」等の発言に対し、外部から「事実と違うデマだ」といくら指摘されても、彼らは同じ発言を繰り返す。いったん集団の中で「真実」と認定されれば、事実がどうであるかは全く問題にされない。

自分たちが妄想で膨らませた「自分たちの狭いサークルの中でしか通用しない現実認識」を「真実」と錯覚する、実体としての「カルト」的な政治勢力が、今の日本の政府の中枢を占めている。神奈川新聞への寄稿でも書いたが、外的要因ではなく内的要因で、今の日本は「国家存立危機事態」だと日々感じる。

前回の戦争があれほど破滅的な結果をもたらしたのも、端的に言えば、日本の戦争指導部が「自分たちの狭いサークルの中でしか通用しない現実認識」を「真実」と錯覚して世界を敵に回したことが原因だった。当時の犯罪を認めず、歴史修正で正当化する人間が、同じ道を踏襲するのは不思議でも何でもない。』



彼の主張を纏めれば陰謀論に傾倒するそれを真実と錯覚する少数派の集まりの狭いサークルの中でカルト的勢力が中枢をしめ、先の大戦に突入していったサークルを踏襲し戦争に突入して行くのは当たり前だということをあくまで冷静沈着に客観視している。

彼の様なインテリで己を高みに置き俯瞰的に歴史をみてしまうと戦争に突入した駄目な集団と、戦争を拒む有能な集団という極端で単純な極論となってしまう。
この極論は戦犯に戦争責任を被せ、戦前までの帝国主義のほぼすべてを否定し、未熟な国家感を強調する。

単なる偏見とも取れるナショナリストの歴史修正主義者を既存の歴史観の中で定義し分類しているに過ぎない。
それだけに、客観視し過ぎてしまい、東京裁判史観から少しでもはみ出るものは、独善的ナショナリストとしてカテゴライズしてしまう。
要するに己の立ち位置、言論空間で飯を食っている立場上そこを守り、起点とするので排外的な論評に落ち着く。

彼の様な左派的言論人がマスコミ、大学、自治体が沖縄の歴史観を死守しようとしているのであって、百田氏の発言には耳を貸さないエゴイストの集団である。
問題は頑なに両者各々の歴史観を微塵も変えずにイデオロギー化しぶつかり合う為、歴史学がそれぞれの立場に被害的偏りを鼓舞する役割の歴史認識、歴史観となって定着する。





例えば集団自決を考えるとき、日本軍が関与し強制性を強調すれば残された遺族に手厚い恩給が支給される。

県民は軍と共に戦った戦友であり、集団自決を日本軍が手榴弾を渡してまで強制することは俄かには信じ難いし、そんな事実はなかった。

己の命に代えてまで守ろうとした県民の戦後を思えば命令も認めただろう、この嘘を後に手記に纏めれば思い遣りの歴史捏造が出来上がる。



最後まで県民の為に闘った牛島陸軍中将の自決の日が沖縄終戦の日となっているが、

彼もまた県民の為に非武装地帯を作った事はあまり語られず、県民を避難させる方角をミスした、疎開させなかったなど日本軍にマイナスな方向に印象操作される。

日本軍で生き残った者への容赦ない捏造が語り継がれ汚名を着せられるケースもある、梅沢隊長などもその代表者だった。

このように残された者に対する故意に捏造された歴史観がのちに脚色され沖縄左翼史観を確定していく。

普天間に戻るが米軍が飛行場を作った当時近隣の状態など調べればわかるであろうが、政府が積極的に調査主張しないことも敢えて県民の歴史観を壊さないような遠慮があるのだろう。

藤岡信勝氏の主張する東京裁判史観、共産主義幻想 、地球市民主義 に支配された歴史認識は占領政策によって捻じ曲げられた言論空間の中で構築された戦勝国歴史観をベースにしてハンデキャップとして帝国主義完全否定と残虐性を
肉付けした非常に偏りがある歴史観が日本史として定着しているのだ。

そんな彼等は敗戦国である自国の歴史を俯瞰的に見ようとするので帝国主義が愚かで未熟なモノとして捉えてしまいある種の優越感に落ち着く。

さらにその優越感は更に俯瞰で世界史を捉えるので、帝国主義はさらにキメの荒い愚鈍なものになって行く。ナショナリズムが極端に削がれた無国籍的な神がかった視点で歴史を修正するものを否定する。

それが中韓の反日的歴史認識として沖縄の認識を被害的な偏りとして語り継がれていく。

左派はこぞって沖縄側に付き安倍政権を引きずり下ろそうと共闘するが、安倍総理の言う戦後レジームとは沖縄だけではない。

常識となっている不正確な東京裁判史観を正しく認識することだ、それに気付いた朝日が沖縄問題に集約して反発し」を学校に配布して問題になった。

問題は監視役が偏った言論でその監視を逸脱して政権おろしの先導者になって国益を阻害することに他ならない。

メディアリテラシー《情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。「情報を評価・識別する能力」》が取り沙汰されるが、

その定義として主体的、客観的視点で捉えるという真逆の説明が氾濫している。但しメディアがその偏ったイデオロギーで嘘の情報源から故意に捏造された記事を見抜くメディアリテラシーなど超能力者でない限り身に付けるなど不可能で、あまりにメディア側を擁護し、受信する国民に責任転嫁するまやかしでしかない。

右、左で言えば東京裁判史観自体が大きく左に偏った歴史観であり、ハンデキャップが添加された歴史観でもある。
当時の資料が開示されようが歴史を流れで理解していないと真偽が見抜けても活用するまでは到達しない。

冒頭に沖縄の歴史を簡単に述べたが、少なくともこれ以上の歴史を知らなければ、メディアリテラシーと呼べる代物には程遠い。


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