中世史を習い始めました。
院政の始まりは1072年の後三条上皇からですが、期間が短いので本格的な院政は次の白河上皇からというのが一般的だそうです。
院政は天皇を退位した上皇が天皇家の家長として天皇を後見とありますが、なんで退位してから政治に口を突っ込むんだろうと思っていたら、摂関家、藤原氏などが姻戚関係にあるので政治に口を突っ込むどころか、自分の意のままに政治を行うことを防ぐためだったそうです。 皇位継承権の確保も院の子孫に皇位を継承させるために大事なことでした。
白河上皇は堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇の時に院政を行い実に43年も政治の実権を握っていたとか。 でも、御所には天皇がいるので、上皇の館で重要なことを上級貴族に伝えて、見かけ上は天皇の御所で物事を決定したとか。
鳥羽天皇の二人の后、得子、璋子と系図には書かれていて、先生は美福門院とか待賢門院という名前で話しておられたが、美福門院得子、待賢門院璋子とかろうじて覚えていたので、誰の話かはわかりました。
この待賢門院と白河上皇の間で関係があって、その子の崇徳天皇は鳥羽天皇の子ではなく白河上皇の子だとかややこしいことが言われていますが、真相はわかりません。 でも、このことが紛争の元になったのですが、当時の書物も後の時代に書かれていたり、誰かに忖度したりしているので事実は闇の中と言うことが多い様です。 今でも政敵に対して、デマを流すなど色々あるので昔も同じだそうです。
鳥羽院は崇徳に対してきつい態度をとったそうですが、この辺りのことは皆さんご存知だと思います。 鳥羽院亡き後、後白河上皇が院政を行いますが、保元の乱、平治の乱へと繋がってゆき源氏と平家が台頭してきて、後白河院と平清盛が初めは組んでいたのが後には源氏を焚き付けて平氏滅亡となった。
ということですが、院政はなんと江戸時代の終わりまで続いたそうです。
さて、この人たちと私の関係は
待賢門院璋子さんは晩年京都の法金剛院(京都市右京区花園)で暮らしました。
小さなお寺ですが、花の寺で季節ごとにいろいろな花が咲いています。
そしてその裏に
待賢門院璋子さんの御陵があります。
鳥羽天皇の御陵は昔の鳥羽離宮の一角にあって(京都市伏見区)
鳥羽天皇の御陵です
こちらは、美福門院得子の子供の若くして亡くなった近衛天皇の御陵です。 父親の鳥羽天皇の御陵の近くにあります。
この塔は近鉄電車の京都線から見ることができます。 昔からなんだろうと思って行ってみたら近衛天皇陵でした。竹田駅の近くです。
一方、待賢門院の子供の後白河天皇の御陵も近くにあります。 この方も鳥羽上皇の子供です。
後白河天皇陵 大きな道路の横で何十年もこの横を通っていたのに知らなかった。
後白河天皇の兄の崇徳天皇は保元の乱で敗れて讃岐に流されたのでこの辺りに御陵はありません。
ということで、一昨年、昨年とこの辺りの御陵を参拝したので、この方達を身近に感じました。
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