十勝の活性化を考える会

     
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連載:関寛斎翁 その1

2019-10-04 05:00:00 | 投稿

年譜

1830年2月18日 文政3年、 上総国山辺郡中村 (千葉県東金市東中) 農民 吉井佐兵衛の長男として生誕
1834年      4歳で母と死別、母の姉の嫁ぎ先、儒学者關俊輔の養子となる
1848年      18歳で 佐倉順天堂入門、蘭学者 佐藤泰然の書生となる
1852年 嘉永5年  帰郷、養父・俊輔の姪、君塚アイと結婚し、仮開業
1854年 安政元年  長男、 生三誕生
1856年 安政3年  銚子・荒野村で医院を開業
1858年 安政5年  ヤマサ醤油・七代目濱口儀兵衛(梧陵)と出会い、銚子のコレラ防疫に献身
1860年 万延元年  濱口梧陵の援助で、「長崎 養生所」に留学 
          オランダ海軍医師、 ポンペ・ファン・メーデルフォルトに学ぶ
         「七新薬」「長崎在学日記」等、出版

§

ひとの記憶が何処まで遡れるのか、誰かに問うて確かめたことはない。ただ、齢五つの時に見た情景は、後々までもあいの胸に残り、折りに触れて思い出される。
 天保十年(一八三九年)、長く続いた大飢饉が漸く終息へ向かおうとしていた時のこと。季節は初冬、場所は上総国山辺郡前之内村の木立の中だった。
 湿った土が朝の陽射しで温められて蒸気を放つ。それが思いがけず濃い霧となってあいの視界を奪っていた。熱があるのか、意識が臓朧として足もとがふらつき、土を踏む感触もない。両の耳は木綿で栓でもしたように詰まり、地鳴りに似た気味悪い響きを耳奥に感じるばかり。
 ふた親は、姉たちは、何処に居るのか。
 幼いあいは家族の姿を求め、細い腕を伸ばして霧を掻き分けていた。
その時だった。
霧の切れ目から、深緑の葉で覆われた梢が覗いた。
 目を凝らしていると、徐々に霧は薄れ、樹形が顕になった。まだ若い樹なのだろう、すんなりと姿の良い山桃の樹だった。
 あっ。
 あいは、息を呑んで身を固くする。
 その幹に、ひとりの少年が取り槌っているのだ。
 幾つくらいだろうか。あいの目には四つ違いの姉ヨシよりも僅かに年長に映った。
 少年は怒りをぶつけるように、握り拳で山桃の幹を強く、強く叩き続けている。
 あいの位置からはその表情を読み取れない。ただ、そこにあるのは激しい怒りではない、ということだけは、幼いあいにも感じられた。
 山桃の樹は、少年に叩かれる度に、まるで詫びでもするかのように、はらはらと緑の葉を落とす。辺りの木々や枯草までも、しんとして彼を見守り、音のない世界に、少年の測り知れぬ哀しみが溢れていく。
 激しく上下する肩が、少年の慟哭を伝える。その哀しみに寄り添い、山桃は静かに葉を落とす。冬枯れの光景の中で、濃い緑色が、あいの目を射た。
 そのあとの記憶がごっそりと抜けているのだが、少年の哀しみと山桃の姿があいの胸に刻まれ、消え去ることはなかった。
髙田郁著「あい 永遠に在り」

君塚アイの生涯を追った髙田郁氏は、その書き出しの中で寛斎との出会いをこう描いた。
九十九里浜に近い上総の国で、貧農の長男として誕生した寛斎は幼くして母を失い、他家へ養子として出された。
この幼い記憶は、寛斎の一生を支配してゆきます。
切なくつらい境遇をしかし力強く生きていく様を、髙田氏はこの書き出しにしっかり込めました。

§

関寛斎の人格は、様々な人たちとの出会いによって切磋琢磨され大きく成長して行きます。
特に儒学者關俊輔、佐倉順天堂・蘭学者佐藤泰然そしてヤマサ醤油・濱口梧陵との出会いが運命を変えます。
やがてオランダ海軍医師 ポンペ・ファン・メーデルフォルトに師事することで、当時最先端の医療人・知識人へと飛躍して行きました。
これらは単なる偶然ではなく、彼の人柄や明晰な頭脳が人を引き寄せたともいえます。

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