十勝の活性化を考える会

     
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連載:関寛斎翁 その3

2019-10-18 05:00:00 | 投稿

濱口梧陵との出会い

寛斎は、郷里前之内村に帰ってすぐに、医院を仮開業するも、ほとんど患者がなく、佐倉順天堂まで出かけて様々な外科手術に立ち会ったり、師に代わって執刀したりすることが多かった。また診察室にこもって、「順天堂外科実験」の記録を整理したりしたようだった。

1854 年(安政元)2月6日 長男生三(幼名初太郎)誕生。 1856年(安政 3) 寛斎 26歳あい 21歳。2月15日 泰然の推挙により銚子荒野村(現在の銚子市興野) に移転開業する。銚子では、「関医院」の看板をかけたその日から患者が押し寄せて多忙を極めたといわれる。そして 1858 年(安政 5)2月16日長女スミが誕生している。

寛斎は、この地で濱口儀兵衛(梧陵)(1820-1885)と出会い、梧陵の勧めで、江戸に出て大流行のコ レラの治療と予防対策を研究して、銚子に帰り防疫に努めた。幸い佐倉・銚子では大惨事にはならずに流行は終わったといわれる。濱口梧陵は、ヤマサ醤油 7代目社長、人材育成や社会事業に関 心を持ち大きな貢献をした人物で、この出会いは寛斎の後の運命に大きく関わることになる。

(参考文献:北海道・マサチューセッツ協会「北海道開拓の基礎を築いた指導者たち」)


この出会いを髙田郁氏は次のように描いている。

『台所で飯を炊き、蒸らす間に、あいは竹箒を手に表へ出た。すでに日の出の刻を迎えて、東天は曙色に染まり、建ち並ぶ家々の瓦屋根を輝かせている。漁に出るのだろう、港の方から威勢の良い声が響いていた。郷里前之内とはまた異なる朝の光景に、あいは帯を手にしたまま、うっとりと見入った。深く息を吸うと、潮と醤油の香りが胸一杯に流れ込む。

 「ああ、良い香り」 つい、声が洩れた。

 ふと、脇に人の気配を感じて視線を向ければ、面長の穏やかな風貌の男が微笑みながらあいを眺めていた。
「確かに、深く吸い込みたくなる良い香りですな」
寛斎より十ほど年長だろうか。藍色の上田紬の袷がよく映る。
藍染めは海水や潮風に強く、海の傍に暮らす者の味方として、あいの心に近い。それだけに倹しい者のための染という思いがあるのだが、どこぞの大店の主という風格の男に、不思議とよく映った。』

 寛斎に梧陵が会いたがっていることを伝えると

「挨拶に来い、と言うのか」
食べ終えた朝餉の膳を押し遣って、寛斎は眉根を寄せた。
「さすか御大尽だな。誰でも呼べば飛んでくる、と思っているのか」

 とにべもなかったが、いざ対面してみると、医学のこと、政りごとのこと、西洋のこと等々話題は多岐にわたり、尽きることが無かったという。



幕末のコレラ流行

寛斎の診療所は患者が押し掛け、順調に推移したが、梧陵の勧めで江戸に出て当時大流行のコ レラの治療と予防対策を研究して、銚子に帰り防疫に努めた。

幸い佐倉・銚子では大惨事にはならずに流行は終わったといわれる。 

その後、コレラ禍を完全に脱するまでの約半年、寛斎は診察の合間を縫って、予防法を説いて回った。また、吐き気で脱水症状を呈した患者には、海水を清水で充分に薄めたものを沸かして与えることを教え、発症して苦しむ者には薬を用いて危機から救った。
 蓋を開けてみれば、江戸市中において死者はおよそ三万人とされるのに対し、銚子ではごく少数が罹患したのみだった。

 安政六年(一八五九年)。春の宵のことだ。
一日の診察を終え、関医院は静寂の中にある。夜天の低い位置に満月が浮かび、その差し込む光で、縁側のある部屋は明かり要らずだった。
「関先生、この度のこと、心から恩に着ます。お蔭さまでこの地はコロリから救われました」部屋に通されるなり、梧陵は両手を畳について、深く頭を下げた。

そこで梧陵はオランダ海軍医師 ポンペ・ファン・メーデルフォルトが長崎に「長崎養生所」を開設し西洋医学の伝授を行っているから、ぜひ寛斎に留学してほしいと頼み込んだ。独立心の強い寛斎は梧陵の援助で留学することを最初はためらった。

しかし梧陵は自ら私財を投じて紀州の郷里に防潮堤を築いたことを引合いにだし、「あなたに日本の堤になってほしい」と、説き伏せたという。

髙田郁著「あい永遠に在り」

§


こうして寛斎は濱口梧陵の全面的な支援を受けて「長崎養生所」へと留学することとなった。松本良順や佐藤尚中などと親交を深め「七新薬」「長崎在学日記」等医学書の編纂や、西洋式解剖学、手術手技を身に付ける一方幕府軍艦咸臨丸の船医となり、外国人船員の診療も手掛けたという。

また晩年の寛斎にとって重要な人物を診察しているが、当時は知る由もなかった。その人物こそ文豪徳富蘆花の父親徳富一敬とその家族であった。



ヤマサ醤油は全国で手広く商いを行い、明治30年代には北海道帯広市にも支店があった


2018年北海道陸別町では、開町100年記念としてヤマサ醤油と提携し限定パッケージを販売した


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