子どもたちのなかで、寛斎の後半生に消しがたい苦悩を刻みこんだのは、長男生三(せいぞう)の存在だった。彼は一八五四(安政元)年、郷里前之内で仮開業した寛斎二四歳のときの出生である。
生三は、父母のもとにあって銚子で暮らすが、父の長崎遊学に当たり、六歳で東金の祖父母に預けられたまま、父母と離れての生活を続けた。九歳のとき順天堂に入門、一八六九(明治二)年、一五歳で、尚中の出向した大学東校に学んでいる。
しかし、その翌年から肺を患い、山梨病院長当時の父のもとで療養した時期もあったが、快復後は、一八七四(明治七)年、二〇歳で再び大学東校の後身、東京医学校に再入学した。そして三年後、西南役に際し大阪陸軍臨時病院長となった佐藤進につくため大阪に行き、翌年再び上京して佐藤尚中にも師事したが、結局その時点では開業医となることはできなかった。
このような生三の医学研修をめぐり、佐藤尚中・進父子や長与専斎らの助力を求めて父寛斎が奔走したことが「……白井、長与の両氏は法を侵して生三を救ふにあらざるも然れども生三をして自ら法に適当せしむるの順路に導くの厚きは思ふて尚余りあり」との日記からわかる。もう一つは、このころ、生三が何か法に触れるトラブルを引き起こしていることである。これ以後一八八四(明治一七)年、生三が三〇歳までの10年間。父と子との対立は相当深刻なものがあったようだ。
関寛斎 最後の蘭医 戸石史郎著
生三は東京医学校から慶応義塾医学所を経て、洋行帰りの医師佐藤進に師事したのち、徳島で医師をしていた。今春、寛斎の勧めに従い嫁を娶ったが、先月、一言の相談もなしに離縁して家から追い出していた。
生三は縁側から庭へ降りて、母に背を向けたまま続けた。
「父さんは気付いておられぬか、心底自分に惚れてくれる女が傍らに居る幸せ、というのは確かにあると私は思います。そうでなければ、生きることはあまりに寂しい」
しんとした哀しみが静かに伝わってくるような、生三の声だった。
ふいに、あいの脳裡に霧の中の情景が浮かんだ。幼い日の寛斎が山桃の樹に槌って泣いている姿が、記憶の底からあいを呼ぶ。
もしかしたら、とあいは愕然とする。
私はこの子に、先生と同じ思いをさせたのではないだろうか。七つでその手を放して以来、生三はずっと孤独の中に身を置いて生きてきたのではないか。
だからと言って今さらどうすることもできないし、生三にしたところで、もう二十七、親の情がどうこう言う歳でもない。あいは自身に言い聞かせるのだが、じくじくとした胸の痛みをどうすることもできなかった。
長男に対する寛斎の怒りは冷めやらず、あいや年子の懸命の取り成しにも耳を貸さずに生三を廃嫡とし、新たに齢七つの餘作を相続人と定める法的手続きを取った。廃嫡、という不名誉が息子の人生に暗い影を落とすことを憂い、あいは幾度も懇願を試みたが、どうしても夫の決断を覆すことは不可能だった。
髙田郁著 あい永遠に在り
子どもに賭けた夢
●梅村 寛斎は自分がこれだけ好き勝手に生きているくせに、自分の長男の生三を、「明治天皇の侍医にしたい」と考えて、わずか10歳で佐藤泰然の順天堂へ預けているわけですよ。自分は18歳まで養父の塾で勉強をしていたのに……。生三は精神的にまいってしまって、途中で順天堂をやめてしまうんですが、その後また大学東校(東大医学部の前身)に入り直しているんですね。寛斎が生三を大学東校へ無理やり入れるんですけど、やっぱりなじめないで結核に罹り、また精神的に病んでしまって、そこも休学してしまいます。
その後生三は医者になるんですが、貧民救済運動や運動に身を投じて大活躍をするんですね。それが爛に障って、寛斎は生三を廃嫡処分にしてしまいます。「徳島新聞」には”ここに父と子の思想的な対立が生まれた。ついに寛斎は生三を廃嫡するに至った”と書かれていました。
◆長尾 子どもを親の考える枠にはめようとするのは、愚かなことですよね。生三にとっては気の毒なことでしたね。立派な親父の束縛から逃れて自分を取り戻したいという思いが、「明治天皇の侍医」とは真反対のところに自分を向かわせたのかも知れませんね。しかし生三は生三で、徳島では社会運動家としても評価されているし、その貧しい人たちに対する思いは、寛斎の思想行動に通底しているように思いますが。
●梅村 そうなんです。この二人の思想は対立してない。同じだから、けんかになったんですよね。生三という人は、ものすごく利発で勉強もできて、寛斎も実は一番期待をかけていたんです。期待をかけていたのに自分の思いどおりにならないからという怒りが、廃嫡処分につながっているんですね。でも貧民救済運動は、寛斎自身がやっていることじゃないですか。親子って何で仲が悪くなるのだろうと考えると、お互いが似ているからなんですよね。
梅村聡・長尾和宏著 蘭医学・関寛斎 平成に学ぶ医の魂
§
寛斎と生三さんの確執は、よくある親子の対立ではあるけれども、晩年まで尾を引くこととなります。
晩年の寛斎に対し、生三さんの二男が相続をめぐる訴訟を起こしていますが、これが寛斎の自死の原因と主張される研究者もいます。
しかしここで大変注目すべきことがあります。
それは、生三さんが慶応義塾医学所に在籍していたことを、髙田郁先生が掘り起し、記録してくれていたことです。
寛斎が北海道陸別で開拓に成功したのち、十勝監獄典獄 黒木鯤太郎と懇意になり、その娘を又一の嫁に迎え入れたのですが、寛斎と黒木鯤太郎の関係が、「地元の名士」という事だけではなにか動機として釈然としない思いがありました。
ところが、ある研究者が「黒木鯤太郎と生三は、慶応義塾で接点があったのでは」との情報を提供してくれました。それならば、黒木が自分の長男と知り合いだったという事で、意気投合したことは想像に難くありません。それで生三さんの慶応義塾での足跡を探していたのですが、なかなか記録には出会うことができませんでした。
しかし髙田郁先生は、しっかり調べて記録に残してくれていました。
Good Job!! Kaoru
「十勝の活性化を考える会」会員 K
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