森に惑う
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三日間降り続いた雨が止んで、午後には晴れ間が広がるという予報。
この気象条件なら、また先週のような木立から射す光のカーテンが観られるかもしれない。
何処か良い場所はないか?思案した。
森の中の湿原、笹倉を思い浮かべた。
今の体力で1000mの峠越えを二つ続けて出来るだろうか?
ちょっと自信がない。
夏緑樹の森にぽっかり開けた湿原、竜神平は、どうだろう…?
標高800m付近の登山口、風穴までなら、ちょうどいいくらいの足慣らし。
拍子抜けするくらい簡単に風穴まで辿り着いてしまった。
山道に入って霧雨の降る涼しさも幸いしたのだろう。
春先から続けた里山bike&run 、予想以上に効果があったようだ。
これで、また黒森峠越えの堂ヶ森入山の見通しも立った。
皿ヶ嶺の夏緑樹の森は、柔らかい若葉のさみどり色が乳白色の霧に滲んで融け出したよう。
シトシト降り続ける霧雨の森を彷徨うと、魂の在り処まで怪しくなる。
幽そけき雨の森の情景ほど、日本人の情緒に訴えかける風景はない。
温帯モンスーン気候のウェットな水の風景…そして余白の多い山水の淡彩、
日本絵画の金字塔、松林図屏風のように…
災害大国である、この国の風土が培ってきた私たちの精神性の根っこにあるのは、「諸行無常、もののあわれ」なのだろう…
「ねぇ、うち(私)狂ってる?」彼女は我に返ったように呟いた。
側にいた幼馴染は、哀しげな目をして曖昧な笑みを口元に浮かべていた。
さっきまで海辺で戯れていた恋人が突然いなくなった。
暖かい掌の感触は、握りしめた砂塊のように、さらさらと零れ落ちてゆく。
恋人は、彼女との繰り返す逢瀬の最中、忽然と消えてしまう。
なんと情の薄い、詮無い恋人との逢瀬ではないか…
彼女は辛抱強く、情の薄い恋人を待ち続けた。
海辺の情景が、いくつもフラッシュバックしてゆく。
学校の理科教室、外階段の踊り場、
そして恋人の遺影が飾られた葬儀の風景。
打ち寄せる波は、ザァーッと曳いてゆく。
断ち切られた記憶がフラッシュバックで戻ってくる。
昨日まで一緒だった最愛の人が、突然いなくなってしまう。
10代の頃、突然襲ってきた喪失感から彼女は、ずっと立ち直れなかった。
普段は日常生活を営んでいるが、
途切れた記憶の中で、彼女は恋人との逢瀬を繰り返していた。
周囲の人たちは、彼女の糸の切れた繭の中の時間を静かに見守っていた…
雨の森を彷徨っていて、前夜観た映画の情景が何度も蘇ってきた。
生きていれば、また逢えるだろう…
決して、もうその人と逢うことが叶わないことを楔を打つように心に刻むことは辛い。
突然断ち切られた恋人との時間は、どんなに願っても取り戻せない。
いっそ彼女のように精神を病んで繭の中で詮無い逢瀬を繰り返していたなら…
突然襲い掛かる災厄の後、残された人たちは…
見事な切りとりに感銘を受け
山水画の余韻に暫し浸っておりました
雨は良いですよね
雪と同じで見る物に命(息吹)を与える
雨女が代名詞、出かけてみましょうか
父の一周忌はもはや他人事
意図していた木立を射抜く光芒もなく冷たい雨に濡れ続けていました。
misaさん、でも私は雨の森が好きなのですね(笑)
恍惚と森の中を彷徨っていました。
乳白色の霧は光の射し方で水彩絵の具が滲むように若葉の色が融け出しています。
今回は、それが表現できたと思います。
等伯の松林図屏風と並んで影響を受けたのが現代日本画の才人、手塚雄二です。
この人の画風も余白の多い山水の淡彩。
画布の中には、小さな生き物たちの営みが描かれています。
大きな自然に対する畏怖と小さな生命の循環に対するもののあわれが表現されています。
久しぶりの皿ヶ嶺の森歩きでした。
林床を彩る花が年々増えている印象です。
風穴から、あんな上までイチリンソウやヤマブキソウの花群が広がっているのに、びっくり。
カッコソウもずいぶん増えましたね。
花の山である皿ヶ嶺の定番写真から距離をおいて森の風景を撮り続けました。
後半に掲載した映画のストーリーは脈絡もなく唐突のようですが、
最近読んだ本の内容も含めて、今の日本人が抱える「寂しさ」という通奏低音で繋がっています。
絵画、それも油から日本画まで・・・
これがご専門?
映画、それも映像が浮かび上がってくるような台詞と情景。
まったくこの人は!
皿が峰、自然がいっぱい、うれしいことです。
荒らされる山々が多い中、自然に繁殖する花々、うれしくなります。
体調復帰もされたようです。
出来る範囲、新たな挑戦で目を楽しませてください。
改めて手持ちの画集を開いて、その技法や風情を学びました。
熊本の震災を目の当たりにして、度重なる自然災害がもたらした、この国の風土の記憶を呼び覚まされた思いです。
自然に対する畏れや精神的な支柱である信仰心を失った私たちは、
どうしようもなく傲慢だったのでしょうね。
常なるものは何処にもない…
もののあわれをキーワードに、また森や山へ通ってみようと思います。