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年寄りの独り言

グスコーブドリの伝記

2011年04月12日 | 地震
『グスコーブドリの伝記』は、宮沢賢治が生前に発表した数少ない童話である。命をなげうって飢饉や冷害から人々をまもる姿は賢治の生涯そのもので賢治はその主人公に自分をなぞらえていたようだ。

宮沢賢治は日露戦争、第一次世界大戦、満州事変などの戦争と三陸地震津波、関東大震災そして冷害など自然災害また米価の暴騰と米騒動さらには世界恐慌と歴史に翻弄され37歳で短い生涯を終えている。

1896年(明治29年)8月27日、岩手県稗貫郡里川口村 現・花巻市)に生まれる。賢治が生まれる約2ヶ月前の6月15日に「三陸地震津波」そして誕生から5日目の8月31日には秋田県東部を震源とする「陸羽地震」がおき秋田県及び岩手県西和賀郡・稗貫郡で大きな災害が生じた。

小学校に入学の翌年1904年(明治37年)日露戦争 

大正3年(1914年)第一次世界大戦の翌年には盛岡高等農林学校に入学
その後にはロシア革命 大戦景気によるインフレとシベリア出兵、米価の暴騰と米騒動などが起こる

1918年(大正7年)卒業論文『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』

1921年(大正10年)稗貫農学校(のちに花巻農学校、現花巻農業高等学校)教師、翌年11月にトシ病死。この頃『グスコーブドリ』の原型を書いていたらしい。

1923年(大正12年)関東大震災

1924年(大正13年)『春と修羅』『注文の多い料理店』

1929年 世界恐慌始まる。

1931年(昭和6年) 満州事変 『雨ニモマケズ』

1932年 4月雑誌『児童文学』第2号に『グスコーブドリ』発表

1933年(昭和8年)急性肺炎で死去 「三陸沖地震」
死の前日まで農民に肥料の相談を受けていたという。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/宮沢賢治)

賢治が創造した「サンムトリ火山」が福島原発と重なって見えるのは自分だけだろうか。賢治だけではない。東北人は性格として、自分自身はほめないし他人のことも悪くはいわない。他人の話をよく聞き、それを頭のなかで何度も反芻し慎重に判断したいと思っているから話すのに時間がかかる。口下手なのではない。自分の口からでたことに責任をもちたいから、他人にも自分にも誠実でありたい、約束したことを守りたいからベラベラ喋らないのだ。それでも一旦決めたらそれを粘り強く、自分を捨ててまでも頑固なまで実行しようとする。

しかし我慢をいつまで強いるのだろか。

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