三月十日
◯昨夜十時半警戒警報が出て、東南洋上より敵機三目標近づくとあり。この敵、房総に入らんとして入らず、旋廻などをして一時間半ぐらいぐずぐずしているので、眠くなって寝床にはいったら、間もなく三機帝都へ侵入の報あり、空襲警報となり、後続数目標ありと、情報者は語調ががらりと変わる。起きて出てみれば東の空すでに炎々と燃えている。ついに、大空襲となる。
◯発表によれば百三十機の夜間爆撃。これが最初だ。
◯折悪しく風は強く、風速十数メートルとなる
三月十三日
◯昨暁名古屋が大挙B29の夜間爆撃を受けた。東京夜襲より二日後で、ピッチをあげている。今度は風が強く、全く利敵風であった。
◯十日未明の大空襲で、東京は焼死、水死等がたいへん多く、震災のときと同じことをくりかえしたらしい。つまり火にとりまかれて折重なって窒息死するとか、橋の上で荷物を守っていると両端から焼けて来て川の中へとび込んだとか、橋が焼けおち川へはまったとか、火に追われて海へ入り、水死又は凍死したとか、川へ入ったが岸に火が近づいたので対岸へ泳いで行くと、そこも火となり水死したとかいう話が下町の方にたくさんあり、黒焦死体が道傍に転り、防空壕内で死んで埋っているのも少くないとの事である。
◯この前の雪の日の盲爆(二・二五)に八万の罹災者を生じたが、今度はその数倍らしい。
◯今日は三日月だが、罹災者の姿痛々しく、街頭や電車内に見受ける。軍公務通勤者以外は切符を売らない。
◯三月十日に焼けた区域は随分広いらしい。
わかっているものだけでも、九段上、番町界隈、銀座一丁目より築地ヘ。新橋駅より新橋演舞場の方へかけて、白金台町附近、高樹町、霞町、浅草観音さま本堂、本郷三丁目より切通坂へかけて、秋葉原界隈、田園調布界隈、司法省、茅場町、日本橋白木屋、高島屋の地下町の方面は次々と焼けたらしい。
◯読売新聞の記事に、罹災区と引受区との表が出ているが、これにより罹災区が十区ある。しかし、この中には麹町区は焼けながら入って居らぬことからみて、もっと多数の区がやられていることは明白だ。
(罹災区) (収容区)
日本橋 赤 坂
荒 川 大 森
下 谷 世田谷
京 橋 目 黒
深 川 四 谷
本 郷 中 野
浅 草 杉 並
向 島 板 橋
本 所 王 子
城 東 荏 原
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以上二十区
麹、麻、小、牛、芝、神、
豊、渋、足、葛、品、蒲、
渋、江、淀
◯若林国民学校へも罹災者一千名を収容、新校舎に入る。暢彦も十三日までで、あとやすみ。晴(※晴彦)は当分登校。
◯偕成社も焼け落ちた。出版企画中の「成層圏戦隊」もこれにて無期延期。
◯吉祥寺駅にて山東先生にお目にかかる。
◯報道班員の身分証明書で切符を買って通る。「報道班員」は近来誰でも知っていてくれるので、早分かりがするようだ。
◯見舞状を出す。今村、朝、摂津、久生、荒木。
◯味噌の配給がとまった。罹災者へまわしたためとある。この隣組の清水、友野両家へも罹災者が入って来られた由。
◯昨夜、疎開すべきや否やについて英と協議す。但し決まらず。
◯昨夜、ねえやの米ちゃん、松ちゃんを解雇し、親もとへかえす。来る十五日頃、こういう人達へ徴用があるとかで、両人がことのほか心配している故、英が解雇の決意をしたものである。今は朝子がいるのですこしはいいが、二十日に朝子も鹿児島へ行くので、そのあとは忙しくなろう。
三月十四日
◯浅草へ行って三月十日の空襲のあとを見る。震災に比べて、延焼の時間が短かかったので(震災は三日間で焼け、今度は六時間位で焼けた)惨害もひどかったことがうなずける。こんなに焼けているとは思わなかった。浅草寺の観音堂もない、仁王門もない、粂(くめ)の平内殿は首なし、胸から上なし、片手なしである。五重塔もない。
◯吾妻橋のタモトに立って眺めると、どこもここも茫々の焼野原。
◯象潟二丁目の或る隣組では、四十五人の人員が二十人しか生存していない。
◯水の公園では押されて人々が倒れると、その上に将棋だおしとなって多勢が圧死し、そこへ火が来て、一層凄絶なこととなった。佐川のおばさんは、かかる折、息子とつないでいた手を放して倒れて下敷となり、息子さんの懸命の努力に拘らず母を救い出し得ず、そのままとなった由。
◯大正震災のときは、それでもかなり今戸の川ぷちに家が残ったものだ。今度は完全に焼けてしまった。痔の神様ももちろんなし。
◯浅草の田中さん、早期に言問橋を渡って左折し(牛の御前と反対方向)そこで助かった。但しその一廓を残し、ぐるりは焼けた。
◯厩橋の常田久子も、赤ちゃんを背にしてにげ、新大橋の下に何時間もがんばって、ようやく二つの命を拾った由。
◯浅草は稲荷町から上野駅前へかけて焼け残っている。他に人家を見ず。
◯二時間半歩いて上野駅へ達した長蛇のような女工さんの群あり、集団引越だそうな。
海野十三敗戦日記
青空文庫にあります。