日本のSF作家の草分け海野十三氏の作品に「海野十三敗戦日記」というのがある。
昭和19年11月から昭和20年までの日記である。
最初は空襲日記と称して毎日の空襲状況を克明に綴っている。彼
は東京の空襲を予想していたらしい。
この壕は、昭和十六年一月に一千円ばかり費やして作った。
とこの日記の最初に書いている。
空襲を予想していたなら敗戦も予想していたのだろうか。
かれは、「日ノ出 付録 國難來る! 日本はどうなるか」1933(昭和8)年4月ですでに日本に空襲のあるこ
とを予想していた。
「それはね、世界の空中戦の歴史を調べてもわかることだし、考えて見てもサ、空中戦は大空のことだからね」
そこで彼は飛行機の侵入論を手短かに語った。今ここに二重三重の空中防備をして置いたとしても、敵の何千、何百という飛行機が一度に攻めてくると、何しろ速度も早いし、その上敵味方が入り乱れて渡りあっているうちには、どこかに網の破れ穴のように隙が出来て、そこを突破される虞(おそ)れがある。ことに夜間の襲撃なんて到底平面的な海戦などの比でない。こっちは高度五千メートルぐらいまでを、それぞれの高さに区分して警戒していても、向うの爆撃機が八千メートルとか九千メートルとかの高度でそっと飛んでくれば、これはわからない。わかったとしてもそういう高度では、ちょっと戦闘機も昇ってゆきかねるし、下から高射砲で打とうとしても、夜間の事でうまく発見して覘(ねら)い撃つことも出来ないという訳で、どこか抜ける。そこを、たとえ爆撃機の五台でも六台でも入ってくれば、これはもう可なりの爆撃力を持っている事などを語った。
「その爆弾をおとされると、丸ビルの十や二十をぶちこわす事なんざ、何でもない。東京は見る見るうちに灰になってしまうだろうよ」
一民間人が予想できたことが、当時の軍部や政府の要人たちに出来なかったはずはない。
それが昭和12年7月7日の盧溝橋事件から支那事変へと落ち込んでいくのである。
そして8月15日には日本海軍は南京への渡洋爆撃開始する。政府の不拡大方針にもかかわらず、宣戦布告なき戦争がどんどん拡大してゆく。
国民政府は、各国の軍事援助を得てかなり抵抗したらしい。
敵は優秀な機関銃をもっている。それに対して日本軍は明治38年式の歩兵銃で戦う。
あまりの戦死者に天皇は驚いて、上海から中には進撃するなと命令したが、軍部はそれさえも無視して南京をめざした。
政府は不拡大方針だから、軍隊には弾薬、食料さえ十分にはない。
食料は略奪、民家は焼き払う。
中には百人斬り競争と称して、抵抗もしない民間人を刀で斬り殺す。
9月28日 - 国際連盟、総会で日本軍による中国の都市への空爆に対する非難決議を満場一致で採択。
12月4日 - 日本軍、重慶爆撃開始。
12月13日 - 南京陥落
まさに日本は侵略者であり、中国を侵略したのである。
「日本軍の軍紀が厳正だったことは多くの外国人の証言にもある。わが国が侵略国家だったというのは正にぬれぎぬだ。」などと暴言をはく輩がいるがこれこそがまさに虚妄、捏造である。
海野十三敗戦日記/昭和十九年十一月一日
これまでのことを簡単に
◯昭和十九年十一月一日に、米機の初空襲があった。少数機だった。偵察のためと思われた。(※マリアナ基地からのB29、東京を初偵察) 一万メートルあたりを飛来、味方戦闘機が出動したが間に合わず、高射砲もさっぱり当たらなかった。敵機は悠々と退散した。白い飛行雲をうしろに引きながら。
◯こんなことになったのも、サイパン島をはじめテニアン島、大宮島(グアム島)が敵の手に渡ったためである。 うわさによると、敵はB29を発出させるために、サイパン島の外まで埋め立て、滑走路を長くして、実施しているそうである。
◯アメリカの放送は「B29ではない」と言っている。しかし何という種類の機であるかは言わない。B32ではないかという説、PBXの一つではないかという説がある。それはB24の改良型で、長距離偵察用として試験製作中のものだという。とにかく、銀色の巨体に、四つの発動機をつけ、少なくとも三百ノットの速力で高々度を飛んで行く敵機であった。 本格的な空襲は、昭和十九年の十一月二十四日から始まった。(※マリアナ基地からのB29約70機、東京を初爆撃)この日(欠字)に警報が出たが、間もなく空襲警報となった。敵の編隊は伊豆半島方面より侵入、なお後続部隊ありという東部軍管区情報は、今日の空襲が本格的であることを都民に知らせた。「東部軍管区情報」を都民が非常に期待するようになったのは、この日からだといっていい。 高射砲が鳴りだし、待避の鐘が世田谷警察署の望楼から鳴りだした。英(ひで)(※海野夫人)や松ちゃん(※海野家のお手伝いさん)などがまだぐずぐずしているのを叱りつけるようにせきたてて防空壕内に入れる。 この壕は、昭和十六年一月に一千円ばかり費やして作った。檜材のフレームを横に並べて、同じ檜材のボルトナットで締めた上、紙を巻いてアスファルトを塗り、これを何回かくりかえし、地中に埋めたもの。階段、二ヵ所の出入口、ハシゴ、床および腰掛け、換気孔などのととのったもので、今となっては得がたいもの。あのとき作っておいてよかったと思う。十四人ぐらいは大丈夫楽に入っていられる。 皆を中へ入れ、私は入口の階段に腰をかけて、壕内より見える四分の一の空を注意し、かつラジオの出す警報その他や、敵の爆撃の音や、味方の機や砲の音、待避の鐘の音などを注意していることにした。壕内は暖いが、この階段のところはやや寒い。板も冷える。直接土に接しているためであろう。 子供たちは待避中元気であり、わあわあさわいでいて、心配していた私は安心した。大家(※萩原喜一郎、隣家)さんの長男の亮嗣君(二年生)と二女のしょう子ちゃんも入ってくるので、皆は一層元気よくわあわあさわぐ。 大人の方は「あ、待避の鐘が鳴った」とか「情報だ、静かになさい」とか「今聞こえる音は爆弾だろうか、味方の高射砲だろうか」などと、ちょっと表情を固くすることもあったが、それ以外はいろいろと雑談に花を咲かせて元気がよろしい。この分なら心配なしと、私は安心した次第。
昭和19年11月から昭和20年までの日記である。
最初は空襲日記と称して毎日の空襲状況を克明に綴っている。彼
は東京の空襲を予想していたらしい。
この壕は、昭和十六年一月に一千円ばかり費やして作った。
とこの日記の最初に書いている。
空襲を予想していたなら敗戦も予想していたのだろうか。
かれは、「日ノ出 付録 國難來る! 日本はどうなるか」1933(昭和8)年4月ですでに日本に空襲のあるこ
とを予想していた。
「それはね、世界の空中戦の歴史を調べてもわかることだし、考えて見てもサ、空中戦は大空のことだからね」
そこで彼は飛行機の侵入論を手短かに語った。今ここに二重三重の空中防備をして置いたとしても、敵の何千、何百という飛行機が一度に攻めてくると、何しろ速度も早いし、その上敵味方が入り乱れて渡りあっているうちには、どこかに網の破れ穴のように隙が出来て、そこを突破される虞(おそ)れがある。ことに夜間の襲撃なんて到底平面的な海戦などの比でない。こっちは高度五千メートルぐらいまでを、それぞれの高さに区分して警戒していても、向うの爆撃機が八千メートルとか九千メートルとかの高度でそっと飛んでくれば、これはわからない。わかったとしてもそういう高度では、ちょっと戦闘機も昇ってゆきかねるし、下から高射砲で打とうとしても、夜間の事でうまく発見して覘(ねら)い撃つことも出来ないという訳で、どこか抜ける。そこを、たとえ爆撃機の五台でも六台でも入ってくれば、これはもう可なりの爆撃力を持っている事などを語った。
「その爆弾をおとされると、丸ビルの十や二十をぶちこわす事なんざ、何でもない。東京は見る見るうちに灰になってしまうだろうよ」
一民間人が予想できたことが、当時の軍部や政府の要人たちに出来なかったはずはない。
それが昭和12年7月7日の盧溝橋事件から支那事変へと落ち込んでいくのである。
そして8月15日には日本海軍は南京への渡洋爆撃開始する。政府の不拡大方針にもかかわらず、宣戦布告なき戦争がどんどん拡大してゆく。
国民政府は、各国の軍事援助を得てかなり抵抗したらしい。
敵は優秀な機関銃をもっている。それに対して日本軍は明治38年式の歩兵銃で戦う。
あまりの戦死者に天皇は驚いて、上海から中には進撃するなと命令したが、軍部はそれさえも無視して南京をめざした。
政府は不拡大方針だから、軍隊には弾薬、食料さえ十分にはない。
食料は略奪、民家は焼き払う。
中には百人斬り競争と称して、抵抗もしない民間人を刀で斬り殺す。
9月28日 - 国際連盟、総会で日本軍による中国の都市への空爆に対する非難決議を満場一致で採択。
12月4日 - 日本軍、重慶爆撃開始。
12月13日 - 南京陥落
まさに日本は侵略者であり、中国を侵略したのである。
「日本軍の軍紀が厳正だったことは多くの外国人の証言にもある。わが国が侵略国家だったというのは正にぬれぎぬだ。」などと暴言をはく輩がいるがこれこそがまさに虚妄、捏造である。
海野十三敗戦日記/昭和十九年十一月一日
これまでのことを簡単に
◯昭和十九年十一月一日に、米機の初空襲があった。少数機だった。偵察のためと思われた。(※マリアナ基地からのB29、東京を初偵察) 一万メートルあたりを飛来、味方戦闘機が出動したが間に合わず、高射砲もさっぱり当たらなかった。敵機は悠々と退散した。白い飛行雲をうしろに引きながら。
◯こんなことになったのも、サイパン島をはじめテニアン島、大宮島(グアム島)が敵の手に渡ったためである。 うわさによると、敵はB29を発出させるために、サイパン島の外まで埋め立て、滑走路を長くして、実施しているそうである。
◯アメリカの放送は「B29ではない」と言っている。しかし何という種類の機であるかは言わない。B32ではないかという説、PBXの一つではないかという説がある。それはB24の改良型で、長距離偵察用として試験製作中のものだという。とにかく、銀色の巨体に、四つの発動機をつけ、少なくとも三百ノットの速力で高々度を飛んで行く敵機であった。 本格的な空襲は、昭和十九年の十一月二十四日から始まった。(※マリアナ基地からのB29約70機、東京を初爆撃)この日(欠字)に警報が出たが、間もなく空襲警報となった。敵の編隊は伊豆半島方面より侵入、なお後続部隊ありという東部軍管区情報は、今日の空襲が本格的であることを都民に知らせた。「東部軍管区情報」を都民が非常に期待するようになったのは、この日からだといっていい。 高射砲が鳴りだし、待避の鐘が世田谷警察署の望楼から鳴りだした。英(ひで)(※海野夫人)や松ちゃん(※海野家のお手伝いさん)などがまだぐずぐずしているのを叱りつけるようにせきたてて防空壕内に入れる。 この壕は、昭和十六年一月に一千円ばかり費やして作った。檜材のフレームを横に並べて、同じ檜材のボルトナットで締めた上、紙を巻いてアスファルトを塗り、これを何回かくりかえし、地中に埋めたもの。階段、二ヵ所の出入口、ハシゴ、床および腰掛け、換気孔などのととのったもので、今となっては得がたいもの。あのとき作っておいてよかったと思う。十四人ぐらいは大丈夫楽に入っていられる。 皆を中へ入れ、私は入口の階段に腰をかけて、壕内より見える四分の一の空を注意し、かつラジオの出す警報その他や、敵の爆撃の音や、味方の機や砲の音、待避の鐘の音などを注意していることにした。壕内は暖いが、この階段のところはやや寒い。板も冷える。直接土に接しているためであろう。 子供たちは待避中元気であり、わあわあさわいでいて、心配していた私は安心した。大家(※萩原喜一郎、隣家)さんの長男の亮嗣君(二年生)と二女のしょう子ちゃんも入ってくるので、皆は一層元気よくわあわあさわぐ。 大人の方は「あ、待避の鐘が鳴った」とか「情報だ、静かになさい」とか「今聞こえる音は爆弾だろうか、味方の高射砲だろうか」などと、ちょっと表情を固くすることもあったが、それ以外はいろいろと雑談に花を咲かせて元気がよろしい。この分なら心配なしと、私は安心した次第。