宮古on Web「宮古伝言板」後のコーケやんブログ

2011.6.1~。大津波、宮古市、鍬ヶ崎復興計画。陸中宮古への硬派のオマージュ。 藤田幸右(ふじたこうすけ) 管理人

▲宮古湾の津波防災はどうあるべきか?

2012年01月10日 | どうなる避難対策

1、閉伊川河口水門 2、宮古湾のディレクション 3、防災施設

2、だれが宮古湾のディレクションをするのか?



a、宮古湾の津波防災グランドデザインのイメージ

図は「広報みやこ」(2011年12月1日号)特集からの下記()方々の体験談の抜粋をさせていただいたものである。宮古湾における津波の進行方向というのか、津波の沿岸襲撃の様子というのか、矢印で置いてみたものである。宮古湾で長年住んできた海のベテランの方々が津波と向き合った証言である。

※ここでは宮古湾内の沿岸に限り、重茂や大沢、崎山、田老など、直接外洋に向いた港湾などからの証言には触れなかった。


この図はまた何かを実証しようとして書いたものではない。地区ごと、場所ごとの津波対策ではなく、宮古湾全体の中での地区、場所を考えていかねばならないから、そのようなグランドデザインの必要性をイメージしたにすぎない。宮古湾レベルの、より正しい詳細の記録を関係機関や学識者に調べてもらって公表していくべきだと思う。役所やコンクリート族の業者は、学者まで、目先きの防災施設にだけ意識が向いているように思われるからだ。それにはまず、これら地域住民の実体験をより数多く詳細に記録していく事からはじめなければならないはずである。

 

あの日、地震が発生してまもなく、
地域の住民は町内会で整備した7カ所の高台のうち最も近くへおのおので避難した。波は湾奥部へと進みながらあふれるように角力浜地区にも入ってきた。“大変なことになった。長丁場になる”。すぐに浄土ヶ浜パークホテルへ向かった。
角力浜町内会の会長を務める鳥居清蔵さん



大きく長い揺れの後、
(宮古市魚市場)場内のコンクリートの継ぎ目から水が2㍍以上噴き出した。初めて目にする液状化現象。水揚げは中断し避難を呼び掛け、場内を最終確認した後、漁協ビルに避難した。竜神崎を見ていると潮が軽く引くのが見えたが、初めのうちは大したことはないなと思う程度だった。しかし、それから一気に海面が高くなり陸地に到達した。第一波の後は、海底がむき出しになるほど水が引き、繰り返し鍬ヶ崎のまちを襲った。家々が滝のように湾内に流れ出て、閉伊川河口では大きな水柱が上がった。
宮古漁業協同組合参事の佐々木隆さん



藤原の
高台にある比古神社へ避難する住民の様子を撮影。急いで自
宅に戻ったが遅かった。自宅のすぐ後ろに隣接する堤防にぶ
つかった波は、はるか頭上からものすごい勢いで落ち自宅を
破壊した。100㍍ほど流されたが自力でがれきの中から脱出、
近所の住民一人を何とか助けた。
民放テレビ局の宮古支局員も務める澤口功さん。



宮古湾内の海水は底が見
えるほど引いていった。間もなく対岸の白浜地区で白い波し
ぶきが空高く上がり、次に高浜を襲うのを目にした。金浜は、
白浜からの跳ね返りの波と沖から直進する波が合わさって盛
り上がる場所。高台へ急ぎ、間一髪助かった
刺し網漁を営んでいた金浜の山本正輝さん



残された方法は一つ。
水門の上屋に直接行って手動降下させるしか
ない。団員の長洞正人さんとともに急いで水
門に向かい、7つある門を法の脇側から運動
公園側に向かい順に閉鎖させた。そのときす
でに藤の川に波がぶつかり、高いしぶきを上げているのが見えた。避
難は間に合わない。“残るぞ”。上屋に残る決断をした。波はとてつも
ない勢いで白浜、赤前、金浜になだれ込みながら水門を越え津軽石川
上流へと向かった。上屋にいるのも危険と感じ屋根に登った。
市消防第20分団長を務める津軽石の中野規男さん



上司の指示で着の身着のまま避難所の赤前小学校に走って避難した。
高台から見た宮古湾内は金浜周辺まで水がなく、まるで干潟のようになって
いた。避難所に到着後は、赤前小学校の先生方とともに従業員の皆で高齢者や負傷者の避難の手助けをした。その後、眼下を目にしたときには、辺り一面が海と化していた。
赤前地区の(株)ウェーブクレストに勤める遠藤伸司さん。


 

1,閉伊川河口水門。に戻る)











コメント (2)
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