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2011.6.1~。大津波、宮古市、鍬ヶ崎復興計画。陸中宮古への硬派のオマージュ。 藤田幸右(ふじたこうすけ) 管理人

あるべき巨大地震・津波対策(4) 「第二章」 住民の命 序~第1節 命の問題

2025年01月20日 | 最大クラス津波

第二章 住民

 

  東日本大震災の反省 

命の問題《「避難」》 

 

(「第二章」の導入部なので「はじめに」などとせずにあえて形式的に「序節」とした。わたしなりにあちこちにぶつかりながら東日本大震災の反省経験をその都度書いてきた。ここでは思い切ってそのことを基本から総括的に表現、主張したいと思うからである。)

東日本大震災の反省点はその被害の大きさ多様性ということである。東日本の太平洋沿岸はほとんど例外なく「想定外」とする未曾有の地震・津波に洗われ、史上初めての甚大な被害を経験した。福島第一原発は破壊され炉心が崩壊して、今でも取り返しのつかない放射能汚染に見舞われている。災害は復興もままならず言葉では言い表せない惨状であった。しかし忘れてならない最大の反省点は地震、津波による直接の死者が関連死を含めて20,000人を数えようとする厳粛な現実である。まさにお一人、お一人が悲惨この上ない災害死であったことである。大半が有事の一瞬で亡くなった。関連死も事情はそれぞれであった。いまだに遺体の発見のない親族も多い。数字に現れない身体損傷、後遺症、PTSDなどで苦しんでいる生存者も膨大なはずである

わたしがここに国民的な反省と巨大地震・津波のあるべき対策を述べる立脚点は、もしかして死なずに済んだであろうこの20,000人規模の死者への思いである。巨大地震、巨大津波といえどもこのような死者を出してはならない、という信念である。感傷的に言うのではなくいわば道義的信念で、2万人と言うより、1人の死者を出さないという方に近い。「あるべき(将来の)対策」としてわたしからのわずかなアイディア、提言もあるが、国への批判、国への要望は、当然その立場からするものである。災害から国民の命を守るという立場である。蟷螂の斧を振りかざして叫び続けるわたしの「(国はその点で)どこまで遅れをとれば気が済むのか?!」という批判と怒りもそこに立脚すればこそである。(その点=死傷者数の大反省から)どんどんかけ離れていく的外れ、能天気の国の「地震・津波対策」はなんともし難い政治家不在の官僚主義であると言わざるを得ない。唐突に官僚主義? と思われるかもしれないが、既存の資源を合理的に利用して…と発想し、将来に備える、と整合生を取る臆病なやり方。今のところそのように率先(先回り)防災対策をしている悪しき国家官僚のイメージである。地震、津波ほど不合理な現象はない

 

 

第 1 節 最初の課題 

巨大地震の「予想死亡者数」の無条件発表、無条件容認はバツだということ

(あたかもこともなげに「死者32万人」と人々の口に膾炙(かいしゃ=広く知れわたっている)されている南海トラフ地震による推定死者数はしかしその数字の根拠が示されていない。おそらく土木建設業界のあて推量なのではないか?と思われるが、東日本大震災の本当の反省が生かされなければ、そのような巨大地震被災の単なる繰り返しになる。土木工事)

政府はM9級クラス巨大地震・津波の人的被害を、千島海溝、日本海溝地震で東北北海道で最大死者19.9万人とし、そして南海トラフ地震では最大32.3万人と推定している。建物被害、経済被害についても…

 

https://blog.goo.ne.jp/traum2011/e/c578b0b7f848b6d646f85b13ccf49fab

 

そうしてこの諸数字を国民の意識上で液状化させておいて、無条件、無批判的に麻薬的思想を国民に流布して(流し込んで)いると言える。おどかして緊張感を誘導するつもりなのか? その数字に対しては認めて(諦めて)ほしいというメッセージなのか? 根拠のないままにその数字を下回ることのアバウトな決意なのか? 目安としての数字は政府の予めのエクスキューズなのか? ── 少なくとも政府は「地球よりも重い人の命」とは声明していない!! 声明なしに根拠の見えない雑な幽霊数字だけが一人歩きしている

 

東日本大震災の救命、被害の反省は生かされているのか

政府、官僚、地方自治体、業界の複合体が東日本大震災の復興に大いに活躍した、と思われている。しかし、それは大震災の人的犠牲者の救済のことではなかった。(そのような言い方は問題があるが)本当の犠牲者が確定した後の、建物や、仕事や、都市区画などの物的復旧、復興のことであった。大きく目についたのはその利用量や利用率、利用効率がいまだに明確でない復興道路や鉄道などの交通網の整備、そして、すでにその効果を政府自ら「役に立たない」「津波で崩壊する」としている各地の防潮堤の新建設であったことである。東日本大震災の反省とは、人命の戦いには敗れ、物的復興の評価はいまだ定まらない大反省の途上にあると言える。つまり、あるべき巨大地震・津波の「あるべき(将来の)対策」としては、わたしはその全比重を、敗れた人命におき《「避難」》というようにして人命の問題に取り組む。

 

「南海トラフ予測死亡者数」の科学的根拠はそのまま巨大地震対策の中心テーマになるはずだ

その点で、引用した政府の予測死亡者数の公表の問題点はこうだ。数字の根拠が示されていないということ。土木学会の発表を政府がう吞みにして御用機関のマスコミがストレートに宣伝しているだけである。その心は政治家、官僚、業界の上記の問いかけのような曖昧に隠された確信のない心である。亡国の政・官・業のいつもの癒着実態である。少なくともこの数字の背後には科学者、学者、識者がいてその算出エビデンスを把握、実証、認証しているはずである。その調査機関、その学者の実態と、その数字根拠たる「算出プロセス」をしっかり公表するべきだ。できれば地域ごと、季節ごとに詳細かつ正確に、隠し事なく、公明正大に公表しなければ話にならない。単なる統計的シミュレーションでは許されない。正しい根拠はそのまま《「避難」》対策、はたまた防災対策の最有力な具体的明示になるのである。具体的手触りのある議論のテーマ明示となる。国民的な議論へのそれ以上ないと思われる問題提起になるのだ。国民的議論の出発といっても過言ではない。政府は直ちにその公開に着手するべきだ!!

 

導入部に「予測死亡者数」の表示意欲は正しい。しかしその表示は救命、《「避難」》等あるべき「対策」との関連は薄いように見える

マスコミは直ちに現行数字の解説、詳細記事、ニュースを発表するべきだ。わたしのような初学者でさえ、ここまで来て、根拠のない数字を根拠にしてこれ以上の議論をするわけにはいかないのだ。南海トラフ周辺住民はもちろん、地区・地域の防災担当者、自治体首長にとっても同じことであろう。待ったなしの命(いのち)の問題だからだ。繰り返し、繰り返し、しつこく、しつこく検証作業に入らなければならないのである。ざっと見える風景は、この予測が現行の国家官僚の能力、倫理と結びついたとき、どんどん的外れ(まとはずれ)な方向にすっ飛んでいくようだ。東日本大震災時の政・官・業の悪しき復興複合体編成の方向である

 

政府はこの問題性から逃げてはいけない。国民の命の直接の問題だ 

これは逃れられない課題だ。しっかり国民的大反省を続けこの「南海トラフ予測死亡者数」の科学的根拠、弁証的開示の問題を政府に受け止めてもらわなければならない。そうでなければ、南海トラフの避難対策も、北海道東北の避難対策も、着手のしようがないからである。もちろん完全なエビデンスの開示でなくても良い、途中経過、またはその解明方法論でもよい、根拠を辿るプロセスを公にするべきである。仮に、それができない場合は撤回し、一番最初から予測死亡者数の問題に取り組むべきなのである。座右に《「避難」》ということの深刻さを意識しながら…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

避難ギリギリまでの避難前の時間の問題1

 

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