昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

ゲゲゲの鬼太郎展

2010-09-30 | 話題
 突然ですが割り込みます。神戸で水木しげる妖怪展があり、その切符を貰ったので行って来ました。
 ゲゲゲの鬼太郎の世界には、少し年代的にはずれていますが、結構人々の夢を身近にさせてくれた鬼太郎の人気は衰えませんね。

 こういう特別展では、撮影禁止が多くて、blogでは紹介をしにくいのですが、可能な範囲で、その感動を紹介します。

会場入口の看板です。昔からある一つ目小僧は、どこか愛嬌があるのですが、これはどうでしょうか。






入口玄関にあった妖怪です。目玉おやじは、鬼太郎をいつも護ってくれる父の目玉です。
 





鬼太郎の最も周辺にいる仲間です。





「つるべ落とし」。秋の夕陽は釣瓶落としとか言いますね。




「河太郎」。河童の河太郎ですね。





いろいろと出てくる妖怪たちの内面白そうな物です。

「百目」は人を見つめると,一つの眼がその人の後を追いかけてきます。魑魅魍魎(ちみもうりょう)と言いますが、その「魍魎」という妖怪です。「うわん」は夜歩いていると「うわん」といって叫び声が聞えます。
 




鳥取県境港の記念館にもあった鬼太郎のプロフィール。





記念撮影用のセットです。左下の白いのは一旦木綿です。






 三宮の駅ビルから見たターミナルです。そこには、なっなっなんと!ドラキュラを迎えにきたのでしょうか、ずらり並んだ、黒い妖怪馬車が並んでいました。
最近は黒いタクシーが増えましたね。

過去の当昆布blogでは2008.9/16-21,9/23-28,と10/1-2に、境港の鬼太郎を詳しく連載しています。御覧いただければ幸甚。

ゼルベの奇岩群(トルコ16)

2010-09-29 | 海外旅行
カッパドキア地方の最後に見られたのが、このゼルベの奇岩群でした。

岩石の行儀のよい統制の取れた図柄を表現する岩たちでした。



帽子を被ったような姿で並びます。浸蝕のためとはいえ、楽しい風景でした。




3人が寄り添っています。




 さて、カッパドキア名物、岩のレストランの玄関です。壁もテーブルも椅子も、勿論天井も一つの岩で出来ています。トンネルの枝分かれの先に部屋がある。
 背もたれと、椅子には布が敷いてあって冷たく感じません。音は室内に反響しますが、岩のざらつきがあるために、それほどでもない。

一瞬アリのレストランに入って、冬のキリギリスを笑うのかと思いましたよ。







左:トルコの名産の絵皿の店に入ります。重いのと、日本までの空輸で割れないかと心配です。
右:トルコ絨毯の店にも入ります。カッパドキアに車で向う途中立ち寄ったものです。次々と絨毯を広げていきます。言葉巧みに、購買欲を刺激します。

畳一帖位の大きさで10万円くらい。大阪外大に居たと言う現地の人が、次ぎ次ぎと巻いて置いてある絨毯を部屋一杯に広げました。よい絨毯の見分け方とかについても喋ります。







径16cm位のを記念に買って持って帰りました。色彩のコントラストが綺麗。







以下、土産で買った置物です。かなり精巧に出来ています。

裏側です。石段がありますね。

この後、バスはトルコの首都アタチュルクの空港に向います。
 アタチュルクは、イスラムの国で政教分離を実施して、トルコの近代化を図り、文字をアルファベットにし、ターバンを廃止にするなど、トルコの父と言われています。

ギョレメ野外博物館(トルコ15)

2010-09-28 | 海外旅行
 この不思議なキノコ岩、まるで誰かが、そこに置いたようですね。この姿が最も有名な物のひとつでした。後方の四角の岩も大変ですね。ぐらぐらしないのでしょうか。




これは親子三人が佇んでいますが、子供がお母さんに身を寄せている様に見えます。昨夜降った雪が世界を白く染めています。





これはイスラム寺院の尖塔のようにも見えます。しっかり洞窟が造られて、人の役に立っています。





急な斜面の洞窟にどうやってたどり着くのでしょうか。穴は内部で繋がっているのかも…。





積雪が岩の陰影を浮かび上がらせています。





尖った岩の先のほうに、鳥が群がって休んでいます。





駱駝を見せるとばかり言う現地ガイドが推薦の造形です。







バスからの風景がまだ続きます。ギョレメ博物館の岩も、少し見慣れてしまいました。


地下都市カイマクル(トルコ14)

2010-09-27 | 海外旅行

東ローマ帝国の時代、キリスト教徒の国が、オスマントルコの支配に替わった時、住んでいたキリスト教徒は、ここに地下都市を作りました。
 地下7層まで堀り続け、そこに一つの社会カイマクルを作り上げました。

 洞窟の中に入っていくと、異教徒から身を隠す工夫が見られます。

下へ下へと潜っていきます。各階を繋ぐハシゴも取り外しが出来るようです。



 ワインを醸造したと思われる凹みのある岩とか、通路を隔てる扉に使う大きな円盤状の岩がありました。敵の侵入を防ぐ時は石の円盤を、ごろんと回転することで洞窟を区切る装置でした。インデイージョーンズの世界ですね。

この穴は台所のカマドのあったことを示すように、周囲の壁に物を燃やした煤が黒く付いています。煙突に当たる穴が上空に繋がっています。煮炊きは煙が外部に見られないように夜にしたと言われます。





教会もあります。ネコもいます。
 








ここは住居ですが、隠れ家で、厳しい暮らしだったと思います。入口には装飾も見えます。






洞窟の教会を訪ねます。ハシゴを上って、中に入ると、各部屋の壁のフレスコ画のような見事な絵画が一面に描かれていました。





左:ここの洞窟には気のせいか生活の匂いがします。
右:観光客用のトイレです。5万トルコリラが要ります。机の上には小さなテイッシュペーパーが置いてあります。手前が男性用、奥の入口が女性用です。和式トイレです。



トルコ13(ウチヒサール岩窟住居群)

2010-09-26 | 海外旅行
 パムッカレで一夜を明かし、走って走って、夕方にはカッパドキア地区にまでやってきました。この街が成立する土壌は、固い岩石でした。
 浸蝕されて残った岩に、トンネルを穿ち、その地面の中を家にする人々が居ました。 

もともとの岩の形が崩れてしまうのではないかと思うほど、トンネルです。





トルコの大地に、月が光を落とし、にょきにょきと空を向く風景は、この世の物でないような…。




住居もあるようですが、直ぐ近くには住宅街が見えていますね。




風雨の浸蝕によって、先の尖ったふっくらした小山が並びます。ソフトクリーム?




岩窟の中は、冬暖かく、夏は涼しいと聞きました。





下に自動車が停まっています。




これらの穴は、奥の方で繋がっているのだと思います。




面白い造形ですね。



トルコ12(コンヤ神学校・隊商宿)

2010-09-25 | 海外旅行
 バスは広野の中の広い道路を延々と走る。NHKの番組のシルクロードのテーマ音楽を聞きながら、トルコでは指折りの大都市コンヤに着きました。

左:路面電車が走る横は、城壁の跡でした。
右:神学校の建物の屋根が、見通せます。
 




 格調の高い神学校の内部は、神聖な空間でした。天井には、アラビア文字で隙間なく装飾され、室内の床は二つに区切られ、勉強の度合いによって席が決まっていたような気がする。




左:カタライ神学校です。入口の壁面の装飾は綺麗なタイル張りです。
右:歴史のある塔は美しい。この塔は、昔、途中で折れて半分の高さになったと言う。
 




メブラナ博物館の入口です。左の青い建物で足を洗って中に入ります。ここにはトルコのふるさとであり、トルコのイスラムの聖地になっていました。




トルコの聖人が、祀られている聖地でした。ターバンが頭の位置を示します。
 



明るい照明で浮かび上がります。






町を出て、再びシルクロードを走ります。

そこにぽっかりと現れたのが隊商宿スルタンハヌでした。巨大な石造建築物ですね。英語の説明文を付けておきます。


セルジュクトルコの時代に建設された最大の、最高の設備を持つ宿です。




中庭を囲む周囲には、多くのラクダが休んだことでしょう。




中央の塔には、風呂もあり食事も揃って、寝室で休むキャラバン隊の人たちでした。賊に襲われないように、入口が狭く、頑丈な城壁が取り囲みます。





バスは雪の広野のシルクロードを高速道路にして、ぶんぶん走る。カッパドキアを目指して走ります。


トルコ11(綿の城パムッカレ・ヒエラポリス遺跡)

2010-09-24 | 海外旅行
 バスはいつかシルクロードをひた走る。雪の草原があり、オリーブの畑があり延々と走る。バスはNHKのシルクロードのテーマを流す。

 やがて、日が西に傾きかける頃、綿の城と呼ばれる石灰棚が山頂に出来ているパムッカレに着いた。

 鍾乳洞のような棚が、山の上に見られます。流れるのは、ここに湧き出す温泉だった。その炭酸成分が階段状に積もった物です。

足元から噴出するのは暖かい温泉です。足湯が出来ます。




赤く染まる西の空を段丘の水面が映します。




絵葉書です。九寨溝のような…。





手前の石板の並ぶのは、温泉の流れる溝です。棚田の風景?。





絵葉書です。これは現地の人の言う綿の城の正体ですね。





これも絵葉書です。美しい。








日が暮れかかる頃、綿の城の背後にある温泉地、ヒエラポリス遺跡を覗きます。





 ここの温泉こそが綿の城を作る流れを作りました。

温泉場は療養所として、活用される病院であった。今も湯浴できると言う。建物の大理石の建築は大部分が破壊されていて、修復されています。



綿の城に向うバスの中からの写真です。まだ日が照っていたのですが、廃墟の遺跡そのものでしたね。


トルコ10(エフェソス遺跡下)

2010-09-23 | 海外旅行
 今回のトルコの旅のコースです。昔ならトルコ銀座とでも言えるほど、定番のコースでした。
 先日も和歌山県の串本で、トルコ軍艦が遭難した時に、村人がトルコの兵隊を救助したことを記念して式典が開かれていましたね。

 フランクフルト経由で、イスタンブールに入り、ダーダネルス海峡をフェリーで渡ります。その後、バスで各地を回った後、アンカラから飛行機でイスタンブールに戻ります。市内自由散策の後、帰途に付きました。





さて、エフェソスの市街遺跡です。図書館がありました。立派な正面の建築は圧倒されます。




この2階建ての門をくぐると、中に建物があったと言う。今は石塀に囲まれた中庭のようである。




図書館は、商店街の道の曲がり角にあり、ここからは大理石の石畳の道路が、更に続きます。





今も残る彫り物がある。ぎざぎざハートになって穴だらけになった時は、足の向いている方向に来なさいと誘っているそうです。そこは娼婦宿でした。この街は港町だったのです。





やがて大きな円形劇場に出会います。観客席はまるでどこかの野球場のような雰囲気です。





途中にある白い隔壁で、1等席とか2等席に分かれていたようですね。




各段の高さは大きいので、通路の石段には中間の高さの段が出来ている。





 下の広場の声がよく聞えてきます。詩吟を一吟楽しんだ。

 下の広場の奥に円柱が並んでいるが、ステージがこの高さであった。
その背後は舞台の背景となる壁が屏風のようになっていたという。




 観客席からはるか遠くを見通すと、円柱が両側に並ぶ道路がついている。この道はエーゲ海に続きます。古代はここの街は港町として栄えたと言います。交易船が立ち寄る町です。

それが海岸線が遠くに行ってしまい、街の繁栄は衰えたと言います。





多くの石造の家の残骸が転がっています。賑やかだったことでしょう。


トルコ9(エフェソス遺跡上)

2010-09-22 | 海外旅行
 エフェソス遺跡は、まだ当時の町並みがうかがえる姿の遺跡です。兵どもが夢の跡といいますか、ここで生活していた人々の声が聞えてきそうな気がしました。


この山の裾をぐるっとまわって、町の遺跡が集まっています。ここにも小さな円形劇場が見えるのですが判るでしょうか。大きなトンネルは、観客席に入るための通路です。





大理石の転がる町並みから、はるかに草原が見えますが、」エフェソスが繁栄した頃は、ここは海であった。港に通じる大きな都市だった。正面に図書館の遺跡が見えます。






左:ニケの女神。酒と豊穣の神である。豊かな実りをもたらしてくれる女神、立像で頭がなくて、羽が背中に残るニケの像としてよく知られている。大阪万博にも来ていたような…。この石版は、街のどこにあったのか不明のままに、遺跡の中の道路に面して置かれている。ちなみに、ニケ=NIKE(スポーツ用品のマーク)
右:町の商店街の店屋さんの遺跡だと言う。大通りがあって、歩道のような細い道があって、各商店はそれに面しています。ちょっと見ると、ガード下の商店街の風景です。





高い空間から落下したと思うが、大きな門構えの欄間に当たる部分に、半裸の女性が居る。その両側にも、一列になってアマゾネスの戦士の姿が居るのですが。見事な彫り物で、しかも、石造での建築資材として、迫力がありますね。




大通りに沿って、住宅街が連なる。崩れてしまっていて、修復には世界中から学者がやってきて、元の位置に戻して復元しています。時々、どこかの国の研究者が間違って、石を積み上げたりするそうです。




これは水飲場です。実際には、これよりも、まだまだ高い建物だったそうです。バランスよく、大理石を積み上げて復元しています。



左:商店街の通りの入口にあった、ギリシャ語の文章です。
右:ガイドが腰掛けて示す水洗トイレです。皆さん並んで、世間話に花を咲かせて、用を足したそうです。下は水が流れています。石が冷たいときには、奴隷を坐らせて暖めてから坐ったと言います。


トルコ8(聖母マリア)

2010-09-21 | 海外旅行
 早朝に、聖母マリアが、キリストのなくなった後に住んだという山荘に着いた。ここも伝説の地であったが、この発見によって実証されたと言う。
 十字架を背負ったキリストの亡き後、マリアはどこに居たのか考えもしなかった。

霜が下りて木々が真っ白になった参道を行きます。路傍にはブロンズ像も見られます。





聖母マリアが過ごしていたと言う建物の壁の一部が発見されて、復元されていた。







進む道の途中に、AD2000年ミレニアムの祭事に参加して、2000年の12/25にここで出逢いましょう、と言う呼びかけの掲示板が、各国語で書いてある。
 






 石造りの建物の中は3-4部屋あるようです。最初の薄暗い部屋の隅のテーブルに、手を合わせて机にうつぶして動かない神父の服装の人がいた。敬虔な信仰の篤い人たちでしょう。


その奥の部屋には、聖母マリアが使っていたと言うベットがある。




奥の部屋には書籍などがあり、丁度、今の時期、キリスト生誕のジオラマが出来上がっていた。





これもキリスト像でしょう。時々見かけますね。





建物の周囲の、祈りの壁です。壁にくりぬかれたドームの形の檀は、3つあり、信仰と健康とお金持ちとを祈ると言う。




ここの山上から見る下界にはエフェソスの遺跡が眠っています。