昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

瓢湖(新潟水原)

2013-01-31 | 国内旅行
朝6時過ぎに大阪を出てから、瓢湖に着いたのが午後2時過ぎでした。
すでにもう、汽車はなくなり、すべて電車だったことに、長い歴史を感じます。
 自分で歴史を感じているなどと烏滸がましいですね。


瓢湖が見えてきました。手前は公園の芝生に積もる雪原です。部屋の窓からの風景。



今夜の宿泊施設です。



瓢湖の観察小屋の案内です。




観察桟橋は水鳥に占領されています。




餌付けの食べ物がここから撒かれます。カルガモですね。




カモの仲間はここだけで一万羽を超えることでしょう。ハクチョウは昨日の調べでは2601羽とありました。
夕刻には三々五々、瓢湖に帰ってきます。




カモの集団の外縁部にハクチョウがいて、カモのおこぼれに与ろうと、カモの周囲で待機中。本来逆だったはず。





エサは籾(もみ)と食パンの切れ端。野菜もあったか。




カモの混雑ぶりは、芋の子を洗うが如し。




毛並が黒いのはハクチョウの一年目の子どもだと言う。親と一緒にシベリヤからはるばる飛んで来ました。





こちらのハクチョウは、餌にはそんなに「がつがつ」しません。頑張ってもなかなか口に入らないことでしょう。




瓢湖の向こう岸が見通せます。話では甲子園球場の数倍の広さだと言う。こんな池が3か所並んでいる。




遠くの背の高い潅木の向こうにもハクチョウが多数見えています。白いラインに見えます。立ち入り禁止です。




雪の白い帯が見えますが、そのまだ向こうです。鵜も頑張っていますが、これでは烏鷺の戦いにもなりませんね。

また、水草の向こうにも、沢山のカモが浮かんでいます。彼らはヒトの与える餌など問題じゃあないのです。




はるか彼方にもハクチョウの姿が見えますね。隣の池の鳥たちです。



瓢湖(新潟県)へ

2013-01-30 | 国内旅行
今年はもしかしたら、ハクチョウを見られるかも知れないと思っていた所でした。
JR大阪駅のジパングの窓口で、あまり何も考えずに切符をそろえてしまった。

朝に弱い自分が、am5:00過ぎには起きて、am6:00過ぎの一番の市バスに乗って、大阪駅に着いた。

左:まだ明け醒めやらぬ大阪駅は、昨夜の電飾が残っている。左手のビルが阪急デパート、
  正面の低いビルが阪神デパート、右の背の高いビルが大丸デパート。
右:新幹線東京行が、大阪鳥飼基地の傍を走り抜けて行きます。
 



まだ、曙光と言っていいほどの朝の光に佐和山城址の標識が見える。間もなく米原を通過する。





富士川の鉄橋を渡る。ガスにまかれているとはいえ、調和のとれた富士山である。川面に富士が映っている。





富士市の製紙工場の煙と思うが、風が強そうです。





左:新装なった東京駅をホームから。
右:ホームの表示盤は派手なものだ。「とき」に乗る。
 




左:東京駅を北に走る新幹線「とき」の窓からでも見える富士山。
右:富士山が見えなくなる頃、真っ白な山が見えてきた。浅間山でしょうか。
 




車窓から俯瞰してみると、浅間山に向き合うように、左方に妙義山の鋸の歯のような山が見えている。





さて、電車はトンネルを出ると雪国だった。(SLの方が味が出そう)
  





この雪の多い土地に新幹線を通すと言うのは、素晴らしい発想ですね。




田も畑も家も雪に埋もれている。ここでは相当の知恵がないと冬は生きていけませんね。
昔の人は強かった。





すでに越後の穀倉地帯に入ったらしい。




長岡で新幹線を降りる。いつかは花火で訪れることでしょう。
 


今も各路線だけは当時のままの名称で集結している。新津から羽越線で二駅目「水原(すいばら)」で降りる。





長岡から特急に乗って「新津」で乗り継ぐ。この駅を中心に新潟県の汽車は各地に散って行ったものだった。





列車の旅

2013-01-29 | 国内旅行
たまには鉄路の旅もいいかなと思って、気紛れに出かけたものです。新潟の瓢湖に白鳥を訪ねました。夕暮れねぐらに戻るのは1600羽、日が暮れて暗くなってもギャオーと鳴き声が賑やかです。朝は7時頃から飛び立ちます。
電車で新潟まで半日で行ける時代になったと実感しました。

般若寺の冬姿。

2013-01-28 | 札所巡り
土塀沿いに、シロヤマブキの実がなっていました。
黄色の「実の一つだになきぞ悲しき」と違って、花は白で、黒の四個の実がなります。




白のサザンカと古株に着生した、ノキシノブと、地衣類が付いています。
 




鐘楼があります。






枯れた草叢の中に並ぶと、石仏も似合いますね。





境内の庭の冬姿です。
小さな石仏は般若坂などで、命を落とした人の場所に建てられていたのを集めたと思われる。




どなたが活けたか、サザンカが招く。




西国三十三番札所の石仏が並ぶ。




寺の扉にあった門札。剣カタバミの紋章ですかね。
薬師めぐりと花の寺巡りと二つある。寺の賑わいが思われる。
 



駐車場のサザンカが映えていた。




楼門は端正な姿である。国宝とも重文とも言われる。昔の国宝が、戦後調査によって重文になったりする。




花の寺十七番朱印。
 



般若寺(十三重塔)

2013-01-27 | 札所巡り
それほど広くないけいだいは、秋のコスモスが有名です。
今は境内が、すっきりと見渡せて十三重塔が庭のシンボルになります。

薬師如来の線刻がある塔です。



十三重塔の一段したに、塔の頂上にある相輪が発掘されました。





石塔の最下段に線刻で薬師如来が見つかりました。その前立ちの彫像は薬壷を持っていませんね。




線刻の仏像が見えます。



西国薬師霊場第三番般若寺の札があります。




東南側から見る本堂です。今は全景が拝観できます。




カラスウリとサザンカです。





笠塔婆があります。明治初期の廃仏毀釈で破壊されそうになったものを、ここへ引き取ったものです。
隅から隅まで学術調査が行き届いていて、すべての文字が解読されています。




境内の東南隅の土塀から、遠く若草山が見えます。



西国薬師霊場四十九寺の朱印です。


般若寺境内散策

2013-01-26 | 札所巡り
後醍醐天皇の皇子、護良(もりよし)親王の別称、大塔宮が般若寺で難を逃れた故事がある。

南北朝の世にあって、足利尊氏の弟直義の手によって、
鎌倉宮の土牢で最期を遂げる大塔宮の悲劇の往時をしのぶ供養塔である。





般若寺の楼門は、数々の歴史を見てきたことだろう。




平重衡は南都を攻め、般若寺にまで来た時、夜、大松明とも呼ばれる家屋に火を点ける。
この火は、大仏をはじめ南都すべてを焼き尽くしたのでした。

一の谷で源氏に捕捉され、鎌倉から奈良に送られる途中、般若寺の北の木津川のほとりで、
僧侶の怒りを背負って惨殺されたのでした。




重衡の供養塔から、境内の十三重の石塔を見る。



振り返ると、楼門はその端正な姿を見せる。国宝である。



???

枯れた草木が冬の様を見せる。コスモスはまだ芽も出ていない。大修理が企画されている。





さて、本堂をバックに不思議な石が祀られている。かんまん石という。


この石に患部を当てると治癒すると言う。


お不動さんのおかげだと言う。


般若寺(花の寺17)

2013-01-25 | 札所巡り
京から奈良に入る街道が二つあるうちの一つに般若坂がある。
奈良の都の玄関口であった。いろいろなエピソードが今に伝わる。

午後2時頃から、もう雨も上がるかという時間に訪れた。



ここは西国薬師四十九霊場めぐりの寺であるが、境内には西国33札所の観音様が並ぶ。
般若寺の中にある西国三十三観音という意味である。




右手で頬杖ついているのは如意輪観音である。2方向から撮りましたが、童顔ですね。
 





ここ般若寺は薬師如来ですが、境内には西国三十三観音の石仏が並ぶ。





水仙はまだまだのようである。





前の如意輪観音様よりも、童顔かなあ。





境内を見渡します。塔の辺りには若草山が見えている。






この石を持ち上げるようにと書いてある。最大が51kg、最少が2.2kgだと言う。




秋には人の背丈ほどのコスモスが満開になるが、その土が盛り上がって耕されている。




国宝の山門の足元には水仙が花を添える。



鶴林寺(聖徳太子絵図)

2013-01-24 | 札所巡り
重要文化財「聖徳太子絵伝」パンフレットからお借りしたもので、大変に画像のざらつきがひどいのですが、ご覧下さい。

聖徳太子が播磨の国まで来たかどうかはともかく、国の改革のリーダーとして庶民の尊崇を得ていたことは確かでしょう。


一幅の掛け軸の絵伝は、紙芝居のように、数段に別れて描いてあります。

聖徳太子はいろいろな服装身なりで描かれていますが、主人公は一幅ずつ同じ服装のようです。

絵の中で太子を見つければ、概ねの出来事が推測出るように思います。

第五幅です。物部氏の破仏の事や戦さを経て、聖徳太子19歳の戴冠などがかかれています。




第六幅です。中国の僧恵慈・恵聰の来朝。太子への黒駒の献上など。







第七幅です。黒駒で富士登山をしたり、諸国に池などを作った場面です。






第八幅です。太子が死に、蘇我入鹿が死に。「乙巳(=いっしの変)」は大化の改新ですね。



冬の寒空にカラスが…。



播州鶴林寺(宝物館)

2013-01-22 | 札所巡り
宝物館の存在が、重文・国宝などの保存が可能になった。

大阪の医師の個人資産で完成した宝物館は、文化財保護に大きな貢献をしている。

昨年秋に完成したと言う。




振り返って境内を見渡せば多くの伽藍を抱えて、次々と楽しませてくれそうです。




宝物館の中は一切撮影が出来ないので、紹介のパンフレットや冊子などからの画像を並べます。

釈迦三尊です。左から文殊菩薩・釈迦如来。普賢菩薩です。

釈迦如来は悟りに入っているので飾り物は付けませんね。
文殊・普賢菩薩はまだ煩悩が残り修行中で身体には多くの装飾物を身に付けます。如来になる一歩手前です。




四天王です。四方ににらみを利かします。左から南・西・北・東の方角を守ってくれる「天」です。
踏んづけている天邪鬼が楽しい。インドの地の神様だとも聞きましたが…。





聖徳太子の姿がありました。髪をミヅラに結っている。見慣れた姿ですね。






「アイタタ観音」と通称言われている聖観音像である。実に美しい端正な姿である。世界の各地で展示されたりする。






左:この太子像は、やや怖そうですね。
右:行基は奈良の大仏の建立を手掛ける前から、すでに播州平野では溜め池を作るなど土木事業を手掛けた。
 





太子堂に残っていた涅槃像です。赤外線撮影だそうです。宝物館には極彩色の復元図が紹介されている。
涅槃図で仰向けでいる姿は珍しい。





重要文化財の聖徳太子絵伝八幅からです。

第一幅:仏教伝来




第二幅:本多善光が如来を背負って、信濃へ下向する様子や、またいろいろな奇瑞を描く。





第三幅:太子の前世・入胎・誕生が描かれる。





第四幅:太子の幼少期と書を学ぶ姿を描く。

全部で第八幅まである。
最後は大化の改新などまであるが、第5~8幅は後日にまわします。



寺の門前で販売されていた太子堂の形の最中です。


鶴林寺(播磨の名刹)

2013-01-20 | 札所巡り
薬師堂を出ると、三重塔が冬の空に突っ立ている。
現代の盗賊が出入りしていた頃に火を出した塔である。



本堂の正面である。何ともその古刹ゆえに化粧裏屋根の白色が消えかけている。建築材も角がすり減っている。





本堂の祭壇は花が飾られ、色彩に富んでいる。なかなか仏の世界は賑やかな感じである。





扉が開いているときの写真があった。
普段は扉の中では、いろいろと話題が弾むことでしょう。薬師如来と日光月光と十二神将である。




本堂を覆う伽藍の下には、派手な美しい間斗束(けんとづか)を持ったお堂である。




ここは更に新西国札所になっている。

西国33札所は、平安時代からすでに盛んであった古蹟である。
新西国33札所めぐりは、大正時代に新聞社が企画して、新聞読者の意見も入れて設定したと言う。、
西国薬師49番は、平成元年に奈良薬師寺の高田高胤氏が唱えたものである。
花の寺25番は、平成5年に、本山の寺を避けて1番の観音寺の和尚が音頭を取って作ったと聞く。

また西国33+坂東33+秩父34=100で札所めぐりは完成するとも言います。


蛇足ですが、
西国33番は番外が3箇所あり、それを3回まわると(33+3)×3=108で煩悩の数になる。
札所めぐりのきっかけを教えて頂いた先生から聞きました。




この優雅な流れるようなラインを見せるのが、国宝の太子堂。







鐘楼の向こうに見えるのが観音堂。その背後の大屋根が宝物館になっていて、仏像などが集めて収納展示されている。





宝物館では、これまで見ることのできなかった国宝級のものが並んでいた。(この項つづく)