昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

与那国島の海底遺跡

2008-01-31 | 国内旅行
与那国島から出てきている友人がいます。台湾の方が近い、肉眼で見える。南十字星が見える。とか聞いていました。かねてから寒い時季に沖縄の暖かさを体験しようと思っていたのが、やっと実現しました。
 沖縄県と言うのを何処まで知っていたのだろうと思うほど、各諸島が散在していました。しかもその広さの大きいことを実感しました。日本列島の地図では、しばしば縮尺が変わって掲載されたりします。

右の方にある縮尺の長さが250kmですから、その長さが理解できます。南西諸島は4箇所の諸島に分かれます。


石垣島から西へ、先島諸島の端に与那国島がありました。


与那国島は東西に細長い。東崎は「あがりざき」西崎は「いりざき」、新川鼻の海岸近くの海中にその遺跡は眠っていました。








島の周囲は断崖絶壁で、海岸線に沿う道もない。船で向かう。高速半潜水艇とはどんなものだか・・。









港の防波堤を抜けてすぐに、灯台の下を通ります。この灯台こそは、最西端にある灯台です。









舟のスタッフの女の子は明るくて気持が良い。喜んでカメラの前に立ってくれました。









海底遺跡の図面を貰った。立派な城郭の構えが読み取れます。さる大学の先生も、まじめに古代遺跡であると論文を書いています。








海中に沈む岩石の切断面や段差の位置などは、ここが、かつての城であった事を示すようです。自然界で出来る形ではありませんね。






舟は波にもまれながら、エンジン音を響かせながら、遺跡の上にホバリングをします。何処がどれやらわかりませんが、岩石の並び方は、確かに城壁のようです。





イリオモテヤマネコ

2008-01-30 | 国内旅行
与那国島・波照間島とまわって、西表島にやってきました。ネコと出くわすことは諦めていたけれど、ネコの話が、そこ、ここに見られました。

バスのボデイーにネコがいました。






サイドにも真っ赤なハイビスカスの色と、世界の希少種イリオモテヤマネコがいます。






港の前には、やまねこレンタカーの幟も楽しい。左端に見える街路樹は沢山の根が出るタコノキではないか。無残に折れてしまっているが。






ホテルのTVでは、ネコが交通事故にあったことを報じていました。






資料館にあった写真から。
確かに瞳孔が丸い。大変臆病な性質で、夜行性で、人目に触れるのはよほど運がいいそうです。マングローブの海も泳いで渡ると言うし、魚も採ると言う。






この民家の裏庭で、鶏を狙って入ったネコが、朝になっても鶏小屋から出られずに捕獲されたといいます。これが世界的発見になったと言う。
 ガイドは言う。「こんな大きな出来事に、こんな粗末な木の表示しかない。しかし、島ではこのネコがいることはみんな知っていたんだ」






道路が見違えるように立派になって、バスや車が増え、ネコの交通事故が増えている。ネコの縄張りに人が入ってきたのである。道路横断の地下道とかもあるが、車が気をつけるのが大事のようです。
 ネコ注意の標識が立っている。








バスのフロントガラスには、縫いぐるみのネコがぶら下がっていました。



八重山諸島

2008-01-29 | 国内旅行
現地の人でも、一生に数回出会うかどうかというイリオモテヤマネコです。出会うことはなかったのですが、そこここに、このネコの情報がありました。

 一昨日一頭が交通事故でなくなったと現地のTVでも言っていました。これで、44頭目ということです。特に最近道路の整備がよくなり、車も増えたそうです。

 
このステッカーは、道沿いの民家のガラス戸にあったものです。



西表島

2008-01-28 | 国内旅行
「いりおもてじま」は猫の新種が発見されるほどだからと思っていたら、今や近代化の波が押し寄せて来て、なかなか良いホテルも出来ていて立派なものです。
猫は昨日も交通事故で1頭減りました。現在120頭が生息しているそうです。
狛犬ならぬ沖縄のシーサーも多種多様です。西表島のホテルにあったのも、変わったデザインでした。

南の果ては西の果て

2008-01-27 | 国内旅行
もっと南は小笠原だろうが、ここ与那国島も結構南の島です。
海岸近くの海中には、遥か古代に栄えたという城址が沈んでいる伝説があります。
どうみても、それは岩石を人工的に加工したとしか思えない構築物が海面下に沈んでいます。
かつて、太平洋に存在した大陸アトランティスの名残りと言う学者もおられます。
その岩石の構築物を見る為に南の果てにやって来ました。
ところが、そこは我が国の西の果てだったのです。
気温17℃の世界は常春の空気だった。

源泉かけ流し

2008-01-26 | 国内旅行
 生きている硫黄岳の麓の海岸線は、船すらも近寄れない岩礁地帯です。

地球内部からせり出してきたままの溶岩の塊が、ごろごろしています。海水は流れ出す温泉の成分によって色が変わっています。









そこには温泉が、湧き出すというよりも、崖から吐き出しているような熱水です。この高い温度の中で、苔か藻類かが生育しています。







湯船を作って温泉場になっています。誰もいない、天然のままの温泉が満喫できます。







 温泉に浸からないという手はないと、入ってみると、これは硫黄泉そのものでしたね。硫黄の漂白作用もさりながら、つるつるになる皮膚は気持がよろしい。
 空を見る。海を見る。浩然の気が養えますね。山は違う角度から見るので、また新鮮に見えます。崩れ落ちそうな溶岩ドームが頭上に迫っています。






展望台から見ると、島から海に流れ込む成分で海が染まります。鳥の一群が編隊を作ってさっと飛んで行きました。

硫黄岳

2008-01-25 | 国内旅行
 島の中には高き山あり。とこしなへに火燃え、硫黄と云ふ物充ち満てり。かるが故にこそ硫黄が島とは名づけたれ。
 雷(いかづち)常に鳴り上り、鳴り下り、麓には雨繁し。(平家物語巻二)

硫黄を含んだ噴煙の水蒸気を吹き出す硫黄岳。






硫黄岳展望所。笹の林が、山を這い登っている。






展望所への道は掘り切りになって、崖を切り開いています。





地面の断面は火山灰が地層を作っている。かなりの噴火が続いて、積もって固まったものですね。

続俊寛僧都

2008-01-24 | 国内旅行
島の小高い茂みの中に、道案内の標識が立っています。
 温泉というのは、湯船の工事が出来ている無人の露天風呂です。その他に人家のある港、俊寛堂、活火山の硫黄岳、平家の落人伝説の名残りの平家城です。






左:俊寛堂への道筋です。道一面の苔は、地元の人によって長い年月の間に育てられたといいます。
右:道の両側には笹が生い茂っていますが、椿の木も多いです。水のない川筋が見えます。(この島には普段から水の流れる川も池もありません)







参道に落ちる椿の花が、苔の緑に映える。









俊寛の住んでいたわび住まいが、村人によって再現されていました。



俊寛の送り火は、お盆の行事として村を上げて行われます。今も続いています。










赤い椿の花弁が散乱する中で、ひっそりと佇む俊寛堂(庵)です。







こんな立派な草庵ではなかったと思われます。傍には勘九郎公演の記念碑もありました。

琵琶湖の風物

2008-01-23 | 話題
琵琶湖でないと見られないのを少しだけアップします。コハクチョウと出遭った日でした。


道の駅の店頭で見つけた仏手柑(ぶしゅかん)。樹高5mくらいまで大きくなるというのに、植木鉢に植えられて・・。
砂糖漬けにして食用にします。「からたち」のようにとげがあり、みかんの仲間ですね。






次は白菜です。葉が変ですね。下のほうを見ると、白菜だと理解できます。






この新鮮なモロコ。琵琶湖を象徴するような小魚ですね。佃煮になっていたり、串に刺して筏になって焼かれていたり、生の姿は水族舘などで見るだけですね。ブルーギルやブラックバスに食われて、数を減らしていると言われています。






古歌にも詠まれる雪の比良山系をバックに、琵琶湖大橋が美しい曲線を見せます。そして、琵琶湖独特の漁の仕掛け「エリ」で作業をしている人たち。
モロコの収穫もあるでしょうか。






琵琶湖大橋の橋脚の隙間から。三上山(近江富士)がちらっと見えます。

俊寛僧都

2008-01-22 | 国内旅行
平家の清盛への謀反のため、3人が硫黄島(鬼界が島)へ流されます。
 やがて赦免の沙汰がありましたが、俊寛僧都が一人赦免にならず、他の二人が船で都に帰ります。
 それを見送る俊寛の姿は、平家物語の描写の圧巻でもあります。





平家物語巻三、足摺の事より
 舟出さんとしければ、僧都舟に乗りては降りつ、降りては乗りつつ。舟、とも綱解いて舟押し出せば、僧都、綱に取り付き、腰になり、脇になり、背の立つまでは引かれて出つ。
 背丈も及ばずなりければ、僧都、舟に取り付き「俊寛をば遂に捨て果て給うか」とくどかれども、取り付きたる手を引きのけて漕ぎ出だす。
 
 僧都、詮方なさに、渚に上がり、倒れ伏し、幼き者の母を慕うように、足摺をして「これ乗せて行け、具して行け」と喚き叫べども、漕ぎ行く船の習いにて、跡は白波ばかりなり。

 いまだ遠からぬ舟なれども、涙にくれて見えざりければ、僧都、高き所に走り上がり、沖の方をぞ招きける。



渚の高いところに駆け上がって、沖に出た船を慕う俊寛僧都の彫像です。







モニュメントの岩の上には俊寛僧都が脱ぎ捨てた草履が残っています。







平成9年に、中村勘九郎は歌舞伎の俊寛をこの砂浜で演じました。
左:流された島で暮らす流人たち。あばら家の裏は海岸線です。
右:実際の海を舟が島を離れていく設定の舞台です。







左:舞台では代々の役者が、最高の見せ場を見せるところです。
右:今もこの島では俊寛の慰霊の行事を伝えています。






浜の高台から、叫び続けた俊寛は、その場の砂浜で一夜を明かしてしまいます。