昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

チベットへ06(五体投地)

2007-07-31 | 海外旅行
わが国では五体投地はあまり見られませんね。無心に拝礼している人を見るにつけても、それがきわめて普通の事に見えて来た。

伽藍の回廊のあちこちで体を投げ出して仏に祈っている。それが自分に課せられた定めのように行われている。


左手に108個の玉のある数珠を持ち、3回すると玉ひとつを指先の爪で繰っていくと言う。皆さん額が土で白くなっている。


次の建物は「釈迦仏殿」である。中に入ると、弟子の羅漢さんが並んでいた。暗い回廊をぐるっと廻って出てくる。


ここは拝礼する人たちが並んで順番待ちである。太い柱を巻いている布は、なんと豹柄である。


釈迦入滅後、56億7千万年後にこの世にあらわれて、釈迦の救えなかった衆徒を全部救うという弥勒菩薩の弥勒仏殿である。


1642年、チベット王国の君主としてのダライラマ1世から数えて3代目のダライラマ3世を祀る。ダライラマは観音菩薩の化身となった。14世がインドに亡命中。


金色の屋根を持つ大金瓦殿をはじめ、伽藍が軒を連ねている。


古刹の並ぶ前には、真新しそうな自動車が並ぶ。時代は変わっているんだ。

世界の屋根チベットへ05

2007-07-30 | 海外旅行
昨日は広州を出て西寧に着いてから、道教寺院・イスラム寺院の観光。西寧の天年閣飯店(ホテル)に泊る。 

今朝は朝からチベット仏教の寺院を訪ねました。塔祢寺(通称タール寺)と言う。写真は絵葉書になった拝観券の一部で、寺の全景がわかる。谷全部が寺院の境内である。

 
1560年(明代)の創建とされる。境内に踏み入れる山門?が世俗との結界になっている。精巧な装飾に眼を見張るばかりである。チベット仏教をラマ教ともいうが、この名前は西洋人が名付けた名だそうで、現地の人は好まないそうだ。


左:山門横の壁画が面白いので大きくします。神の遣いの象の上に唐獅子が乗っている。その前に更に唐獅子である。
右:経文を書いた絹(化繊)の布を売っている。それは仏の前に奉納するものである。


前夜の雨で、道がぬかるんでいる。泥を掃く人もいるが追いつかない。天気が良ければ五体投地の信者がいると言う。


この寺のシンボルの八大仏塔。


寺の中の伽藍は すべて内部が撮影禁止である。建物の装飾概観の賑やかさを撮った。じっくりと見ていると日が暮れそうである。(聞いたことありそう)


主要な伽藍に小金瓦殿と大金瓦殿がある。横文字はチベット語である。


タール寺の経蔵である。中には巨大なマニ車があって、参拝の人がぐるぐると押して廻している。字の読めない人でも、マニ車を廻すと経を読んだことになるという。
 最上部の両端の白い彫刻は象の牙が見えている。


赤十字の詰め所である。


左:石像への信仰で自分の財産やお金を奉納して祈る。
右:喫煙駄目、写真駄目の標識。漢字を見れば意味が分かりそうで面白い。

世界の屋根チベットへ04

2007-07-29 | 海外旅行
西寧の市外を見下ろす崖に建設された道教の修行寺を、許されるところまで登りつめた。

 通路の終点に人が立っているが、足元が見えないので幸せである。はるか眼下を見渡せば、ビル乱立の200万都市が見える。霞んでいるのはスモッグだろうか。
 重慶に行った人が滞在中、スモッグの為に星も月も見たことがないと言う。1000万都市の重工業都市の発展に環境が追いつかないという。


唐からチベット経由でインドに向かった玄奘三蔵(げんじょうさんぞう=三蔵法師)は、ここ西寧を通過している。この北禅寺の中にある石橋の欄干に、西遊記の物語を見つけた。
孫悟空である。


猪八戒である。


三蔵法師である。


 次の市内観光はイスラム寺院である。明の時代に(1380年代)建設され、青海省最大のモスクという。中国西北地区のイスラム教本部の役割を持っている。
ちょうど太陽がモスクの屋根にかかってきた。三日月の像と太陽が揃い踏みである。


左:イスラムの塔が美しい色でまとまっている。
右:寺院の中門があって、広い中庭の向こうに礼拝の本殿が見えている。


左:横には講堂のような教室があって、若い信者が数人勉強をしていた。イスラム経典の書物が多数ある。
右:中庭の木陰では、イスラムの教えを話す人がいた。


左:樹下の語らいが、どこまで人々の心を救うのでしょうか。
右:境内の横の建物に架かっていた表札。イスラム教を漢字に直すと楽しい。ラムは漢字の蘭の字がこんなになってしまう。


中国の文化と、イスラム文化が共存している。

世界の屋根チベットへ03

2007-07-28 | 海外旅行
広州を8:10に出て、西安で給油後西寧に12:40着。昼食は四川料理の辛いものだった。それが広州の献立とまったく同じだった。まだ、この時点ではそれほど抵抗感はなかった。

乗客の大部分は中国人で、飛行機は満席だった。


ここ西寧で海抜2250m、日差しは強いが涼しい。ここまでくると、大気のスモッグもなくなっている。



 西寧は古来からシルクロードの南方ルートの起点で栄えた町であった。中国とは一味違った異郷と言われていたそうです。イスラム・中国漢民族・チベットが溶け合っている街という。
 近年、資源の豊富なことがわかり急速に発展した。青海省の省都になっている。


 このひっそりとして見える西寧の街が、何と現在人口200万人という。
左:交差点の信号機にはすべてデジタルのタイマーが赤信号の時間を示している。
右:自動車の修理会社が並ぶ。


 西寧市内の道教の寺院を訪ねる。いわゆる仙人が修行をするところで、山の崖っぷちに建っている。ここは漢民族が信仰するお寺である。
「北禅寺(ほくぜんじ)」と言う。2000年の歴史を刻み、当初は仏教寺院であったが、現在は道教寺院になっている。約200段の石段を上がる。

石段にかかる手前の坂道沿いには、占い師10人ほどが並んで座っている。目の前の地面には、風水か何か卦のような物を書いた紙を広げて、客を待っている。


斜面を上がると山門がある。禅宗の源流である。狛犬ならぬ唐獅子は阿吽像ではない。


次のお堂にはご神体があり、また真っ赤な顔と長い鬚の関羽の像がある。堂宇は、緻密な装飾が施されている。前に立つ香炉も巨大なもので精巧にできている。


信者が奉納する色とりどりの飾りや絹織物でいっぱいである。中の仏像は写真が駄目で、厳しい監視の目がある。


石段はまだまだ続く。上から降りてきた老婆は漢民族の人であろうか。


太鼓と鐘の楼台がある。屋根の曲線などは禅宗のお寺である。遠景に200万人の西寧のビル群が見える。ビルラッシュのようだ。


寺院の背後の崖には洞窟がある。修行の為の物だろうか。どうやってあそこまで行くのかなあ。


上に上にと参道は続いている。また崖に張り出してまで通路があり、足が震えそう。

世界の屋根チベットへ02

2007-07-27 | 海外旅行
午後に日本を飛び立ち、中国の広州に向かい一泊する。
 俗に「食は広州にあり」とか「足のある生物で食べないものは机だけ」とかいうのが広州から出た言葉である。今回はチベットに向かう出発地点になる。
 広州の空港は、井桁の形に滑走路を作るつもりで、中国の拠点空港になる。

 
中国は鶏の形をしているという地図です。旧満州が鶏頭になって、香港が足になる。
そう見えないでしょうか。
 赤い丸印の広州から、西安で燃料補給の後、西寧まで一気に飛ぶ。 古代から、中国を出て西への旅の起点になったのが西寧だと聞いた。三蔵法師もここを通過している。


左:広州の空港の敷地の中にあるノボテルという名のホテル。昨年竣工開業したというので、まだ新しさが随所に見られた。
 ところで、高校野球の甲子園球場の前にノボテルという名の一流のホテルがある。前身は甲子園ホテルだったのが、いつかこの名前になっていた。
右:このルームも新感覚である。隣のバスルームとの境はガラス一枚である。ボタンひとつでカーテンが下りてくるが、部屋全体が広く見える。


辛い中国料理はさすがに本場である。かなり辛い麻婆豆腐の左隣の皿は茄子のあんかけの煮物で、にんにくと唐辛子で口に入らない。その向こうの皿が、三度豆と豚の炒め物、ジャガイモの細切りと唐辛子の油炒め、その次の黒いのはキクラゲと唐辛子の炒め物、そして焼き飯と続く。
 この時から4-5日間はこれと同じ料理が出てくるとは、神ならぬ身の知る由もなかったのである。


翌朝、広州の空港のロビーの中央に出ていた果物屋さんの店頭。味のきつい中国料理の後は、これらの果物がうまいと思う。


左:広州を離陸してまもなく、客室乗務員が忙しい。
右:缶ビールを貰ったら、横書きに「釣魚台国賓館宴会用酒」の文字が見える。6カ国協議が行われていたのが釣魚台会議場であったような。



世界の屋根チベットへ01

2007-07-26 | 海外旅行
中国がチベット王国を併合して、その施策の仕上げに青蔵鉄道を完成させた。
 鉄道は途中、崑崙山を横に見て、揚子江の源流域を通過して、標高5000mの峠を越えてチベットのラサに入る。
 古代からの西の玄関口「西寧」からの総延長は2500kmにも達する。

 写真の整理がまだなので、多くの入場券の中から一部をアップしました。

車体はカナダの航空会社製とかで、内装は飛行機並みである。各座席の下には酸素供給のノズルがあり、気圧も酸素も足りて十分である。


西寧からゴルムドまではバスで走る。いつか標高は2280mから2828mなる。


中国最西部の新疆ウイグル地区の手前「青海省」をバスで走る。


古代の漢の時代にはすでに塩の生産があった。ここチャカの塩湖は無尽蔵の塩を産する。


列車は終着ラサ(標高3641m)に着く。ここの代表はポタラ宮殿である。数え切れないほどの数の仏像に出会った。

琵琶湖の蓮

2007-07-25 | 自然界
 来る28-29日が、琵琶湖の「水の森」の蓮祭りで、人で賑わう。今が丁度満開ではないかと、琵琶湖の草津に向かった。

泥の中から出て美しい花が咲く蓮は、古来、世界中の国で愛されてきたロータスとしても、ギリシャローマ時代の文献にも出てくる。


ここの蓮は、野生である為、逞しい葉を持っている。


右には、花の終わったのが見られる。蜂の巣のような形であるので「蜂巣」と呼ばれ、ハチスがハスになったと言われる。


背景の山は近江富士である。今年の花はよく咲いていると思う。


一面が蓮の花だらけである。


カメラに没頭している人がいる。


梅雨明けの強い日差しの中で、飽かず蓮に見入っている人もいる。


ところで、今日でblog掲載の写真が5000葉を超えました。

梅雨明けらしい

2007-07-24 | 話題
気象庁が「近畿地方は梅雨は明けた模様」と発表をした翌日、今日は見事な青空が見られた。上弦の月も懸かっている。

バスの車窓から見ていると、夏の花サルスベリが今年は一入美しい。カメラを持っていつもの公園に向かう。


出来上がって2年目の公園は、桜と見紛うばかりの百日紅が満開である。


エゴノキと思うが、実が鈴なりである。


近くで見ると、なかなか楽しい形をしている。


足元には、小さな花が満開である。右はトラノオの一種である。


夏の草花、真っ赤なサルビア。


秋の七草キキョウが、やがてくる秋を予感させる。

ケニア(from album)

2007-07-14 | 海外旅行
 突然ですが、アルバムの中から出してきました。
 サバンナが見たいと出かけたのが7-8年前のことでした。

車とにらめっこしたときは迫力満点。大きなアフリカゾウでした。まだ濡れている。


マサイマラ自然保護区は大阪府ほどある。サバンナである。


食事中のファミリー


左:サイが大きな身体で小さな草を食んでいる。
右:ペリカンが急に飛び立った。優雅なものである。


ダチョウの雌の井戸端会議。


ヒョウが頭上で動かない。イエローアカシアの森で。


多くのアクセスを頂き有難うございました。
明日から都合で、暫くblogを休みます。健康ですのですぐに戻ってきます。忘れないでください。

多田神社03宝物殿

2007-07-13 | 歴史・文化遺産
鉄筋コンクリートでできた立派な宝物殿があった。拝観は有料であるが、現在修理中とかで公開していなかった。以下の写真は神社の冊子からコピーしたものである。

左:宝物殿前に老木が立っている。この立て札を見ると水戸黄門お手植えの銀杏と書いてある。信じましょう。
右:横にある老樹は、キクラゲのような茸が寄生していた。食べれるかなあ。


2領の鎧と烏帽子、肖像画などがある。左の鎧の草摺りには金で笹リンドウの紋がついている。その背後の掛け軸は源頼義の肖像画である。


古文書がある。表装の手入れがしてあるようだ。
 1223年、鎌倉の北条泰時の書状があり、多田院には代官を置かずに直轄の僧(忍性)を派遣し、寺院の造営に当たらせている。
 鳴動・・とあるのは、満仲の廟がしばしば鳴動して、頼朝の頃に始まったと言う。その後、室町時代にかけて8回を数えているが、すべて瑞兆のときであったという。
 また足利尊氏は戦勝祈願の書、摂津の地の一部を寄進、尊氏の死後、その子義詮(よしあきら)によって遺骨を多田院に収めた文書がある。
 銀閣寺(慈照院)建立の足利義政の祝辞、などの古文書が残っている。

多田銀山を諸領している領地であったことも、幕府直轄になったとも考えられる。

左:源満仲公24歳の時の御神影。
右:源満仲公75歳の時の御尊影。

満仲59歳の時に、出家を望むが許されず、四男美女丸を出家させた。満仲の出家は65歳であった。号を「満慶」という。

源家の宝刀「鬼切丸」である。信州戸隠山の鬼を満仲が退治したときの刀といわれる。刀懸けの塗りの蒔絵がよく出来ていそうだ。

 戸隠山の裏に「鬼無里(きなさ)村」があるが関連があるかなあ。鬼無里村の伝説もいつかアップします。