昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

日本画の風情

2012-09-30 | 歴史・文化遺産
高校の頃からの同窓に筆の堪能な知人がいる。

弟子に多くの人も抱えている。今回は県立の施設「原田の森ギャラリー」を利用して個展を開く運びとなった。





墨彩画の分野に入ると言う。
 





カワセミの春と、雪をその香りで染める紅梅。
 






花弁の厚みを感じるシュモクレン。






霊峰富士。






左:津波に残った松だろうか。            右:清楚なテッセンは和ませてくれそう。
 






黄色に染まる銀杏の林。





左:カサブランカ。       右:サクラ色に染まる桜
 





この大型の鳥は渡り鳥だろうか。小さいのは、カイツブリかキンクロハジロか。



楽吉左衛門の世界(佐川美術館)end

2012-09-29 | 歴史・文化遺産
「楽」の伝統を守る茶の名器を制作してやまない吉左衛門氏襲名30周年の年輪が展示されていた。


「守」は師の教えを守ること。
「破」はその教えから脱皮し他の良い物を取り入れること。
「離」は跳躍し新しいものを作り上げていくこと。

茶道のみならず、武道など、およそ道を究める極意と技を伝えて行く時の心得として用いられる。





彼は、この美術館の地下にある展示室を活用して、暗闇の中に、一筋の外光の落下を活用した茶室を作った。

名器と言われるお茶碗が並ぶ。




一心に一つの器を食い入るように見守って動かない若い女性がいた。




 


広い茶室は、立ち入り禁止になっていた。




赤と緑との調和の中では、焼き加減が味のある色と形を作るようですね。

色のコントラストの激しさには身震いしませんか。




この派手な色の変化と、表面の不安定な肌触りは面白いかも。





 



中庭の水に浮かぶ佐藤忠良氏の作品





佐藤忠良の世界(佐川美術館)3

2012-09-28 | 歴史・文化遺産
佐藤忠良の作品群。


これは子どもでしょうか。水たまりに足が浸かって「ひゃっ!」と叫んだとか、叫ばなかったとか…。





最初の部屋に並べられた、三つ彫像は動きのあるもの。





こちらの部屋は、さまざまな作品。





座っているのと、立っているのと。
 





窓際の部屋には賑わいがある。





はしたないなどと思わないでください。自然界の美だと思ってください。
 






シベリヤ抑留という体験が、どこかに出てきているような、情熱のようなものも感じますね。
 





活き活きした表紙の童話の本。





戦争体験者らしい不毛の世界のようです。





メルヘンの世界。




生命力あふれる樹木の生きる姿そのものですね。


平山郁夫館(佐川美術館)2

2012-09-27 | 歴史・文化遺産
平山郁夫氏の代表的な作品、シルクロードでしょうか。奈良薬師寺でも見たような。 

月の砂漠・夕陽の砂漠でキャラバンが西へ、東へと行き交います。



牛も。






アンコールワットが平山郁夫氏の眼にはこのように映るようだ。




アンコールトムの入口の門です。白の濠を渡る橋の欄干は兵士がコブラの胴体を支え持つ。





アンコールトムの中の目玉、バイヨン寺院ですね。確か時の権力者の王様の顔を彫ったと言う。



左:ワットで繰り広げられた美人の踊り手。   右:タ・ブローム寺院が自然に呑み込まれている。
 





モスクのある風景を描いている。




イスラム圏の草原地帯を行く。




「緑釉鴨」=「緑の釉薬でつやを出した鴨」と言う意味。後漢時代(AD25-220年)





昭和5年(1930)しまなみ海道沿いの生口(いくち)島に8人兄弟の第3子として生まれる。

平成21年(2009)12月2日、享年79歳。 生口島の少年時代の記念館は感動ものです。



滋賀県の佐川美術館

2012-09-26 | 歴史・文化遺産
滋賀県守山市、琵琶湖大橋の東詰めすぐに、佐川急便が美術館を建てている。

今回は平山郁夫氏の作品と彼の収集した美術品などの一部が公開されています。

彫像の佐藤忠良の作品。楽焼の粋が出ている楽吉左衛門の幽玄のひらめきが出ています。






さすがさすがの美術館のデザイン。空間は見るものにほっとした気持ちのゆとりを与えます。





この手つきは彼女の何を吐露しているのでしょうか。開放感?受け入れる包容力?長い手ですね。





直角に曲がった所の、水の空間では、牡鹿が立ち上がっている。





正面に回ると、迫力がある。





平山郁夫コーナーの入口にあった、銘板。





彼は、世界中を旅して感動を得ている。世界地図は納まりきれないが、アジアから中東にかけての地図がある。

シルクロードが緑色である。





平山さんの収集になったガンダーラ仏と仏舎利塔。
 






これは「唐三彩」の騎馬。見ていて飽きが来ないのは名品だからかも。






これは金製品の壁飾り? 径10cmほど。




陶器の器だろうか、菓子鉢?  右は「玉」に穴が開いていて、糸で繋いでいたもの。






小物の飾り物。






岩絵の具の原料になる岩石。綺麗な岩に驚き。



山陰本線(とある駅)

2012-09-25 | 旅の風物
鳥取県の山陰地方の海岸沿いの話。

神話に出てくるこの白兎海岸はそれほどの長さを持つと言うほどもない長さです。

海岸線から離れて島が、その海峡にサメを並ばせて、ウサギが背中を飛び越え、海を渡ったと言う伝説です。



次に岬を越えて現れる海岸線は、民謡「貝殻節」を生んだ海辺である。

昔から名が付いた「貝殻最中」の店がある。




浜村海岸は海岸の砂地にできた国道9号線である。




貝殻最中の店の壁のポスター。





そして少し西に「とある無人駅」がある。モータリゼーションの中でも、JRは頑張って走っている。





山陰本線の無人駅である。






鳥取発米子行のデイーゼル列車が入ってきた。






一日の時刻表を見ても、1時間に1-2回停車するだけ。




そして列車は、駅があることを横目にして、プラットホームを通過していった。

後は元の静寂に戻る。

藤原京跡2

2012-09-24 | 歴史・文化遺産
藤原宮跡の広大な敷地に浮かび上がる、朝堂院の柱の跡。

右端にちらっと見える山で、緩やかな頂点をみせる山は三輪山で、大神神社の御神体である。






広い宮殿は、外国からの客のもたらす文化を取り入れるのに効果的だった。






今後の発掘には大きな期待がかかる。







北の方向を見ると、バックに大和三山の一つ耳成山、目前の森が大内裏跡である。








右に大内裏跡、そのちょうど後ろ、北側には耳成山。






当時の役人は、この広い広場で、政り事の連絡調整相談で右往左往したと思う。







大内裏跡には、クスノキの茂る中央に、石灯篭が建ち、石の玉垣で囲まれた一画がある。







今はカマキリが、藤原宮を守っているのかも。






藤原宮跡の碑が建っている。


藤原京跡

2012-09-23 | 歴史・文化遺産
 前回の本薬師寺から、少し離れたところには藤原京の遺跡が発掘されている。

現在でも、藤原京の規模については、いろいろと議論されているが、将来が楽しみである。

調査研究が進んで、現平城京址の様に謎が解明されていくと面白いのだが。


本薬師寺から北西に10分も歩くと藤原京の朱雀大路に出る。



中国の様に条里制を敷き、その広大な都を作り上げる。

外国からの使いに、大和政権の秩序と伝統を見せつけて、国威を示したと言う。

持統天皇の時代(694→)から文武・元明天皇の時代(710→)まで、平城京(奈良)に遷都するまで続いた。



空中写真で見る。アマガシの丘の左側(東側)が、いわゆる飛鳥であり、聖徳太子や蘇我氏や物部氏らが登場する空間である。






都大路の遺構も出土する。





藤原京を南から見通すと、正面に大和三山の一つ、耳成(みみなし)山、はるか向こうに大極殿のあった丘がある。




赤い柱は、宮殿の柱の跡を判りやすくしている。


奈良に遷都した後の時代に、藤原京にいて花を付けていたハギの花のように、そのまま散ってしまった。とでも…。
万葉集の歌である。






後の世に田圃になってしまったが、藤原京跡であったことから、所有権を放棄した奇特な人たちのおかげで、
少しずつは遺跡が発掘されているようです。




上の案内板の下半分にある説明文です。


本薬師寺のホテイアオイ(下)

2012-09-22 | 話題
ホテイアオイは、帰化植物で、もちろん飛鳥時代にはなかったものである。

6枚の花弁を持つミズアオイ科の帰化植物である。





本薬師寺址の遺跡には、更にハギ・サルスベリ・柑橘類なども育っている。







この大きな樹木も、伽藍を作る柱の礎石が残っている所。





休耕田を利用して、一面にホテイアオイを植えたものだろう。冬には枯れると言うのに…。




正面には、畝傍山が見え、新興住宅の家々も見える。ホテイアオイも頑張って咲いている。





広大な面積で咲いている。




ちょうど飛鳥三山の畝傍山(うねびやま)と香久山(かぐやま)がバックになっている。

香久山は、はるか前方の山の中で、最も小さく見えているなだらかな丘である。





花のアップです。





かつて水田であった名残りで、田の土と水面が見えている。

葉の茎の部分が丸く膨れ、七福神の布袋様の腹の様である。水の底の泥を貝が歩いた足跡が筋になって見える。







ここも、かつての藤原宮の条里制の区画の中にある。







皆さん、こちらを向いて何か喋っているように見える。






葉の逞しい風情と花の可憐さが、良い対比を示す。


本薬師寺のホテイアオイ(上)

2012-09-21 | 歴史・文化遺産
「元薬師寺」は普通「本薬師寺」と書かれる。


天武天皇の皇后であった持統天皇の病気快癒を願って建立した本薬師寺である。





その時の壮大な伽藍は、その面影もなく、現在は「白鳳山医王院」となっている。





都が藤原京から、平城京へと移動したことに伴い、現在の薬師寺が出来上がったと言われる。





本薬師寺跡の敷地に、ムクロジの木があり実を付けている。




この実の外皮を剥くと、黒い堅い種子が現れ、羽根突きの遊びの時の羽根になる。






礎石の大きさから類推すると、かなりの規模の薬師寺であったようだ。







周辺の土地から発掘された柱の礎石が、ここに集められている。






何やら後世の人がお祀りしている。





この史跡の周囲では、現在ホテイアオイが真っ盛り。