夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

どうしても解らないことがある

2015年12月14日 22時40分38秒 | 日記
猫が子供と同じ範疇に属している人が居る。猫が何かを要求してニャーと言うとそれが赤ん坊の泣き声に聞こえるらしい。一方私には煩く付きまとう物乞いのだみ声に聞こえる。餌をねだって体をこすりつけてくるのが子供の甘えに感じられる人が居るようだ。私には時間も弁えず上がり込んで来る煩い隣人に感じられる、『うるさい、あっち行け、シッ、シッ』だ。学生時代、煩くやってくるヤツが居た。閉口して部屋の電灯を消して小さな懐中電灯で勉強していた。

続けるのに疲れた。とにかく人の感性と心と感覚と五感と心理の奥の間に勝手に上がり込むヤツは何でも嫌い、遠慮を弁えない奴が嫌いだ。怒りの炎が燃え上がる!



basic income

2015年12月14日 22時23分10秒 | 日記
ベーシック・インカムと言うものに大変興味がある。でも、日本人中99.99999999999パーセントの人は『ナマケモノを作るだけだ』と反対しよう、乃至は歯牙にもかけない。

しかし、聖書の黙示録は神の安息の日が終わった後には『対価の概念』が無いことを暗示している。実際、今日地球上で見る全ての災厄なるものの根底にあるのは『対価の観念』である。いみじくも『時はカネなり』、つまり人生と金銭を交換する・・・と言う文言がある。如何に美辞麗句をものして本質を糊塗しようと人類社会は『生きるためには死ななければならない』との約束で機能しているのだ。

この執拗な観念を取り去らない限り人類に救いは訪れない。地球の元々の概念は創世記にあるように『あなたは園のどの樹から取って食べてもよい』であったのだ。但し『知恵の樹の実は食べてはならない』つまり賢しらに人智を以て『何を喰らい何を飲まん』と思い煩ってはならない、であったのだ。

ところが世の中を見回すと『思い煩うことこそが賢い人の条件』のように思い成している人々が多い。中途半端に学問めいた事、学問の真似事をやるからそうなる。学問を突き抜けるとバカになる。尊い貴重なバカである。そのようになるまでガクモンしなければならない、する根性がないならむしろしない方がいい。

外国人観光客

2015年12月14日 20時40分20秒 | 日記
日本に観光に来るのはかまわないが礼儀作法を弁えて欲しい。

シナ人の行儀の悪いのは論外、来て欲しくない。朝鮮人もテロをしに来るからシャットアウトして欲しい。この二種類の二足歩行人型野獣は政府が締め出して欲しい。

次にそれ以外の外国人について・・・ゾロリとして品の無い服装で伊勢神宮や伏見稲荷、春日大社、金閣、銀閣等々由緒ある聖域に踏み込んで欲しくない。シリのはみ出そうな短いパンツ、ゴムゾーリ、或は生脚丸出しで明治神宮などに入り込み、跳んだり跳ねたりしているのを見るとバカにされた気分になる。

人に会う時、そこいらのジジババに会う時と総理大臣に会う時で、同じカッコウはしないだろう。葬式にジーパン、Tシャツで行く日本人は居ない、居たら白い目で見られて弾きだされる。

ところがTPOを無視するのがナウいとかモノに拘らない進歩的な考えだとか、仕来りに盲従しない思慮ある行為だとか勘違いするバカモノが最近の若いノに多い。不愉快である。

内助の功

2015年12月14日 13時39分43秒 | 日記
沖縄の”ちんすうこう”なるお菓子や歯が折れそうな”せんべい”を貰っても嬉しいとは思わない。が、仮に内心そう思っても私はそれを表には出さない、『どうも有難う』と先ず言ってから具体的にどう嬉しかったかを付け加える。相手を喜ばせることこそ肝要なのだ。

『ものごとが真実であるかどうか』は問題ではない。『素材となる物事を如何に美しい絵にするか如何に感動的な物語にするか』を考えなければならない。そのような観念のない者が絵を描いたり音楽を演奏したりする資格はない。芸術に介入する資格はない。芸術なるものが解っていない。

女の中で非常に賢い人が居る。私の祖母や母もその類であった。親戚や姻戚から時として何かの贈答品をもらってもそれを題材にして一遍の物語を作るでもなく絵を描くでもなく、『他人でもあるまいに何を事々しく・・・』とふくれっ面をしたものだ。・・・こういうのを『徳がない』と言う。『徳』は『得』に通ずる、やがて祖母の家系も母の家系即ち私だが・・は真摯に生きるにも拘わらず徐々に落ちぶれた。

内助の功とは夫に内緒で蓄財するとか誰やらの妻みたいに合戦に必要な馬を調達するとかの行為ではない。もっと奥の見えない、上記のような『徳性』のことである。『徳』のない妻を持った男は不幸である。彼の懸命の働きも努力も報われない。

賢い無知

2015年12月14日 10時45分19秒 | 日記
俗臭紛々となった教会に対して抗議した人々を当時の教会は『異端審問』なる拷問や拝炙りの刑にしたらしい。この火あぶりの刑に資するべく『敬虔な婆さん』などが『焚き木』を持って来たりしたとウソか本当か、記事を読んだことがある。

どこから見ても真っ当な常識、良識を備えた紳士、高学歴、世俗にあっては大学教授、高級管理職経験者等・・・、その人がその紳士たるの根底信条であるキリスト教等に随って言動する時、『何と無思慮で見識を欠いた!』となるのを望見する。

私はここにキリスト教が本質的に世界を解体せんが為に巧妙に構築された地獄の伽藍であると見る。