夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

妄想力

2015年12月11日 13時24分07秒 | 日記
妄想力に置いて南トンスル共和国人を越える者はないのではなかろうか?

1.イエス・キリスト生誕時の光景を描いた絵が国宝であるらしい。周りに居るのは上記の衣装を来た人々だが聖書のどこを読んでもその証拠はない。
2.イエス・キリストの最後の晩餐の絵もまた上記の人々でこれまた国宝らしい。

自助努力の労を惜しむ → 他人に遅れる → 遅れを取り戻すべく地道で律儀な努力を惜しむ → さらに遅れて最早挽回の目途が立たない → カッコだけつけようとする → 馬脚を現す → 負け惜しみを言う → エスカレートする → 自分の不足を他人のせいにし始める → エスカレート → 自分自身をも騙そうとし始める・・・歴史捏造(イエスさんを同族だと自分をも納得させるべく絵などをものして国宝とかにする) → 積極的行動をとるようになる・・・カネを使って他人を篭絡する、篭絡される人間が結構多い(ロビー活動ってやつかな?カネや票に目が眩んで節操も矜持もかなぐり捨てる人間が結構多いね) → うまくゆけば他人の成果の上に胡坐をかけると考える、で、お先棒を担ぐ人間に実弾射撃したりチューシャしたり・・・民主党とか法曹界とか報道界とかガクシャセンセーとかセージカとかゲーノージンとか教師とかチシキジンとかボーズとかボクシセンセーとか居るわ居るわぞろぞろ這い出て来る。

結論は?こういうのは『命の書』に該当しないのじゃないか?だとすれば人類社会からの戸籍抹消焼却処分、無論実弾射撃でウイルスに感染した者共もご一緒に。
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北海道

2015年12月11日 09時27分43秒 | 日記
あるブログを見ていたら『北海道9区の選挙民が神とも敬う鳩山・・・』なる文言が目に飛び込んできてびっくり仰天、目薬をさしてみたり眼鏡をかけたみたりムシメガネで覗いたり、画面を一旦消して再度出してみたりしてなお驚き止まず。

あの『ポッポッポ、ハトおじさん・・・』と我が郷里鹿児島県の悪童どもが歌うざれ唄と同じ呼び名の『ハトおじさん』を『神』とも崇めるとは北海道の人々の頭脳の配線はどうなっているのだろう。

意地悪い・・・私は非常にカンが鋭い影響で意地悪く邪推癖がある・・・邪推をすれば北海道は明治維新に際して『官軍』から追い立てられた東日本諸藩の人々、西日本からは言葉が悪いが『食い詰め者』の行った処、真正正統日本に対する『ひがみ』があるのではないか?その『ひがみ』は時として理非曲直を踏み越えたり『謂れない優越感』に変わりもする。

北海道に行って肌に感じた感想を煎じに煎じ詰めると似たような立ち位置であった『台湾』と非常に違う。記憶に残る、写真で見る台湾はどちらかと言うと『日本』が島全体を覆っていた。同じ南に在りながら沖縄よりも伝統日本が濃かった。思うに海軍、台湾総督府、役人として送り込まれた教師などの影響があろう。

ラ・サール高等学校の出身だが歳を取るにつれて余り好きではなくなった。日本人の背骨が感じられないからだ。キリスト教の独善エセ博愛自虐的グローバリズムに毒されている感じがぬぐえないのだ。多様な文化、多様な民族に寛容な優しい社会と言うのはその『社会』を食い物にしたり破壊しようと目論むものの巧妙な言辞だ。私はそんなものには騙されない、偏狭で頑迷な肥後薩摩ハイブリッド人である。

北海道が真正日本の伝統と文化に比肩し得る懐の深さを獲得するまでにはまだ相当の年月がかかろう。
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人類は今何処に立っているか?

2015年12月11日 07時46分53秒 | 日記
ヨハネの黙示録16章19節のような感じがする。

世界は 主症状擬似博愛独善文化圏、主症状嫉妬暴力蔓延野獣圏、主症状拝金モラル崩壊圏 の三種類に大分類され得る。

而して日本だけがそのいずれにも属していない。

間もなく突如、現代文明の根幹を成すものが瓦解して秩序を保つ国家、政府のようなものは機能しなくなり、人類社会は烏合の衆弱肉強食野獣世界となる。

多分日本の伝統的日本人社会だけがその例外になる。黙示録3章7~10節
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aroma theraphy

2015年12月11日 06時01分34秒 | 日記
therapyの語源は多分聖書に出て来る2種類の天使、ケルビムとテラピムのテラピムの名から起こっているのではないか?

過日ふとした事で仏具店に行き、そこである線香を貰った。試しに焚いてみて気に入った。一晩過ぎて残り香のある事に気着いた。・・・新しい世界が拓けた。私は嗅覚に関しては普通の人よりは鋭敏なせいでもあろう。葉巻なるものを嗜む人の気持ちが解る、手を出さないだけだ、弾けるととんだ散財になりそうだから。でも香の方も深入りすると危ない・・・金銭的に・・・んじゃないかな?と思っている。だが相当に興味がある。

残念ながら奥様はお嫌いなようだ。だろうね、彼女の出自はどうやら大隅国の土人、一方私の先祖は京の都の公家か社家であることが判っているもの。

関連して思い出したのがアロマ・セラピーと言う言葉である。ネットで見てみたらアロマ・オイルとか言う芳香性のオイルを使ったどうやら美容に関係するらしい事のようだ。これまた聖書を想い出した、頻繁に出て来る、例えば”ギレアデのバルサム”、”ラザロの姉がイエスの足に香油を塗って髪で拭いた・・”等の記事。

余談だがラザロに姉は二人居た、マリアとマルタである。イエスの脚を香油で洗ったのはマリアの方である。マリアはイエスの傍に居てその話を聴いていた。一方マルタは接待の為に忙しく立ち働いていた。マルタがイエスに言う、マリアにも仕事をするように言って下さい、と。イエス答える、『マリアはいい方を選んだのです、彼女からそれを取り上げてはなりません』・・・この記事は随分考えさせられる。普通の感性には客人を接待するために忙しく立ち働くのが『立派な』こと、と思いがちだが『世の中にはもっと重要な事もある』

香を焚く、その香を愛でる、アロマ・セラピーで心身を癒される、花を飾る、花を植える、花を見て楽しむ、これらは生存には関わりない事であるがそのような事に何の感性も持たない世界からは、世界は、汚らしい穢らわしい汚穢に満ちたものがやがて出て来る。そんなところが海の向こうにあるじゃないか。
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