えびす顔の造花卸売問屋元社長からの手紙

かすかな希望を抱いて幸せを自慢する尊大な手紙。重複掲載御免。造花仏花の造花輸入卸売問屋ニューホンコン造花提供

朝日新聞 和田公一記者死す

2010年02月25日 22時20分38秒 | ドンキホーテ
 彼と初めて会ったのは、25年近く前の松江。毎日新聞松江支局に3年遅れで入ってきた。偉そうな言い方で申し訳ないが、たったひと月弱彼の新人教育を担当した。お巡りさんとどんな話をするか、事件現場でどう取材するか、イロハのイにもならないぐらいを教えた。期間こそ短かったが、新人で入ったその直属の先輩の私に、彼の思い入れも少しはあったのだろう、私が支局を去る時に小さなオルゴールをくれた。今も手元にある。

 次に会ったのは二年後の神戸支局、私を追いかけるように神戸に赴任してきた。半年間、Mキャップ、サブキャップの私、彼の三人で兵庫県警を回った。赤ちゃんの誘拐事件、神戸市長選挙違反事件、暴力団抗争。事件が起きれば早朝から深夜までの仕事。家族よりも濃密な時をすごした。「同じ釜の飯を食った」そんな表現が当てはまる。

 それからもしかしたら一度くらい会ったかもしれないが、私は二年後に退職、彼も朝日新聞に転職した。数年前に大阪に赴任して来た時に、会おうと約束しながら会わずじまいだった。

 18日に単身赴任先の名古屋で脳卒中に倒れ、20日亡くなった。自宅のある東京で行われた今日の葬儀に、Mキャップ、私、そして和田君と同期で当時司法を担当し一緒に事件を追いかけたY君が参列した。当時の毎日新聞神戸支局の俗に言う「サツ回り」が思わぬ形で全員そろった。もう彼は写真額の中から微笑んでいるだけだが。

 弔辞を読んだ朝日新聞の後輩記者が、「何本も一面トップの特ダネを書いた特ダネ記者」と麗句を贈るのに、彼のその後の大活躍を初めて知った。

 47歳は若すぎる。

 ご冥福をお祈りします。

 写真はお葬儀で配られた彼の最後の記事。
コメント (7)
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