飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

英国人が911に就いてのBBC相手の訴訟に勝利した

2014-09-19 15:17:33 | ブログ

 今更感もないわけではないが・・・

9.11自作自演テロの法的根拠のひとつにはなろう!

BBCを巻き込んだメディア一体の壮大なウソが証明された!

その意味は大きい!

 

 それにしても、未だに目の覚めない人々が多いことか?! 取り分け、マスメディアに身を置く人々は、この意義に粛然として、身を糺すべきであろう。


 

 これは、一つBBCばかりではない。全てのマスメディアに言えることである。自作自演テロは、未だに続いているが、それはマスメディアの洗脳なくしては成り立たない。マスメディアは、自作自演テロに加担しているのである。かつてもそうであったし、今もそうである。

 

 少なくとも、今回の判決は、マスメディアのウソ報道に対する糾弾であるが、実質的にテロに加担したとの間接証明でもある。その意味は大きい。


 

 この報道事故については、広く知られている話であるが、知らない方のために開陳しておこう。

 

 WTCテロの際、ツインタワーが崩壊して後、遅れて世界貿易センタービル第7ビルが崩壊したのであるが、その崩壊24分前に、BBCは『世界貿易センタービル第7ビルは崩壊しました。』と端折って報道したのである。その報道中継の時、第7ビルは存在した。それが報道画像にちゃんと写っていたというものである。

 

 それを背景に女性特派員レポーターは、滔々と『世界貿易センタービル第7ビルは崩壊しました。』と喋っているのである。スタジオのキャスターもそれに気がつかない。全くのお笑い種であるが、その後、この録画は消され、葬り去ろうとされたが、一度、放映されたものは消えない。後に拡散して注目を集めた。


 

 これを見たものは、一目瞭然、WTCテロは自作自演であると確信を得た。問題は、BBCは何故、崩壊前にそれを知っていたかの疑問である。予定されていたから、報道予定にも入っていたのである。それを謝って、早く、報じてしまったという報道ミスであるが、事実上、BBCはテロに加担したと見られなくもない。

 

 実は、BBCに限らず、全ての大手マスメディアは加担していたのである。予め予定されたシナリオ通り、WTCテロのプロパガンダに加担したのである。そのシナリオを書いたのは誰か? その素性は知れている。知れているが、固く隠し通している。これは実態である。

 

 その動画を再掲しておこう。

 

BBC Reports Collapse of WTC Building 7 Early-- TWICE

 

 もういい加減に目を覚ますべきである。

 

 序でに、当時ブッシュジュニアーが、演説でWTC崩壊と言わずに、『爆破(エクスプローション)』とゲロった動画も、掲載しておきたい。全ては、シナリオだったのである。役者が下手で、露呈する、こういうことはウソ劇場には、ままあるとの証左である。

Bush talks about EXPLOSIVES in building (on 9/11?)

 

 真実は、必ず、顕れるものである。



【転載開始】英国人が911に就いてのBBC相手の訴訟に勝利した 2014年9月15日                          

http://www.rumormillnews.com/cgi-bin/forum.cgi?read=316680

Big Victory! UK Man Wins Court Case Against BBC for 9/11 Cover Up!

http://youtu.be/hI5lEZaHCaI

 

トニー・ルック(Tony Rooke)氏は、BBCが意図的に911に就いての事実を隠して放送したとして受信料の支払いを拒絶したが、BBCは受信料未払いの罪でルック氏を告訴した。

 

BBCが世界貿易センター第七ビルが自由落下速度で崩壊した20分前に、ビデオ放送を行った事は広く知られている。

 

そこでルック氏はBBCはあらかじめテロ攻撃があることを知っていたことになり、テロ攻撃の共犯だったと申し立てた。彼はBBCの放送の経緯を多くの他の証拠とともに判事に提示した。判事はルック氏が抗議するに足る十分な根拠を示したとして申し立てを是と裁可し、この結果ルック氏は受信料支払い拒否に対する罪には問われないことになった。【転載終了】


 

【元記事転載】Big Victory! UK Man Wins Court Case Against BBC for 9/11 Cover Up!
http://youtu.be/hI5lEZaHCaI

 

 

 

http://www.undergroundworldnews.com
Tony Rooke refused to pay a TV license fee because the BBC intentionally misrepresented facts about the 9/11 attacks, he alleged. It is widely known that the BBC reported the collapse of World

 

Trade Center Building 7 over 20 minutes before it occurred. WTC 7 was a 47-story skyscraper that was not hit by a plane on 9/11 but collapsed at free-fall speed later that day.

 

So Rooke said the BBC had to have had prior knowledge to a terror attack making them complicit in the attack. He presented the BBC footage to the judge along with a slew of other evidence, and the judge agreed that Rooke had a reasonable case to protest. Rooke was found not guilty and he was not fined for failure to pay the licensing fee.【転載終了】



証言「私が見た従軍慰安婦の正体」 小野田寛郎

2014-09-19 10:39:55 | 社会・経済

朝日新聞の捏造記事が喧しい・・・。

南京大虐殺捏造が暴かれようとしていると思ったら、

慰安婦問題捏造も暴かれる・・・!

吉田絡みだが、

福島原発記事にも捏造か・・・

 

 とうなっているのか? 朝日新聞! という話である。


 

 とにかく、捏造は頂けない。捏造は、99の真実に一つの虚報を混ぜると言われるが、まさしく、朝日の手法はそれに似ている。ディスインフォメーションの典型のようなものである。ディスインフォメーションは、企図する虚報である。

 

 吉田調書を読んだが、朝日の記事は、企図ある虚報である。これでは死人に口なしの者には、浮かばれない話である。セウォル号の船長と比較されるような記事を書く謂われはなかった。すぐにもバレルような記事を書く朝日はどうなっているんだろう。

 

 さて、

 

 今回は、吉田は吉田でも、32年前の吉田清治証言の非を認めた朝日新聞の謝罪である。証言者が、その誤りを認めているのであるから、


まあ、本に真実を書いても何の利益もない。関係者に迷惑をかけてはまずいから、カムフラージュした部分もある。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか。チグハグな部分があってもしようがない。

・・・・

著書は小説だった・・・・・人権屋に利用された私が悪かった」とは述べたが、「私にもプライドはあるし、八十五歳にもなって今さら……このままにしておきましょう。


との、本人談が公知となったら、グーの根もなかったのであろうが、実に罪な話である。


 朝日新聞捏造叩きとの評もある一方で、これははっきり言っていただける話ではない。若い時は、知の朝日との標榜した時もあったが、何時の頃からか、遠ざかって久しい。知に驕り、捏造まで走ったか?という思いである。


 矢継ぎ早に、捏造記事が明らかになったのも意味があろう。それを叩きとするには、さらに無理がある。出るべくして出た捏造暴露である。天網恢恢、粗にして漏らさずということである。それが、単に矢継ぎ早に連続したというだけの話だ。


 何事も、実事求是は大切なことだ。


 南京大虐殺はなかった。これも事実である。純粋に観て、そう確信した。それと同じで、従軍慰安婦問題も為にする論議であるとの認識があったが、その源流が朝日新聞にあったとは、2重3重の驚きである。南京大虐殺も朝日新聞であった。そして、別の吉田問題、吉田調書が全貌が明らかにされて、一層の驚きである。

101201011

 


 吉田調書並びにその他の調書の全公開はここにある。何事も実事求是であるから、まずは、目を通して置かれるがよかろう。

http://www.cas.go.jp/jp/genpatsujiko/hearing_koukai/hearing_list.html


 従軍慰安婦問題に関する故小野田旧陸軍少尉の証言があるので、お耳を通して頂こう。そして、お目にも通して頂こう。判断はそれからである。


証言「私が見た従軍慰安婦の正体」 小野田寛郎

【転載開始】これの元になっている雑誌取材記事はこれ

小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」 「正論」1月号より
(記事はオールアバウトより抜粋)

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首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、
多くの方々が論じているところだ。
南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。
戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。
外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、
兵士による強姦と略奪・放火である。
そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。

大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。
当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。
野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は、常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。
それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。
淫らな言葉だが、中国戦線では「ツンコ・ピー」「チョウセン・ピー」と呼んでいた筈であるが、
他の人の見ている所でする筈のないことだけに、「慰安所」のことも「慰安婦」のことも、公の場で自己の見聞を正確に発表する人が少ない。
あまり詳しいと「よく知ってるね」と冷笑されるのが落ちだろう。 では何故、君は、と私に聞かれるだろうが、幸い私はその実態を外から観察出来る立場にあったから、何も臆することなく、世の誤解を解くために発表することが出来るのだ。

◆漢口の「慰安所」を見学
商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。
当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・旧ドイツ租界・旧ロシア租界・旧英国租界に分かれていて地区ごとにそれぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。
日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、そうでない者は警備上難民区に住まされていた。
難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。
私は、仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。 ある日、汚れた軍服を着た兵士に「慰安所はどこか知りませんか」と路上で尋ねられ、一瞬思い当たらず戸惑った。
しかし看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と、「憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したのでその通り教えてあげた。
映画館と同様に日華区にあった。汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に間違いない。街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出してないからだ。
私は「特殊慰安所」か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう。
小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと早合点していた。ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので「慰安所」の出入りが自由であった。
彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。 私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。
日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。
そこには内地人も鮮人も中国人もいた
(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。
群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。 憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。
料金は女性の出身地によって上中下がある。
また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。
半島出身者に
「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」 「精神決めてトットと上がれ ネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、 笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。
内地人のある娼妓は
「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、 中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。

◆どこにもいなかった「性的奴隷」
ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。
「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。
そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。
私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。
その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。
というのは、彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。彼女たちは実に明るく楽しそうだった。
その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。
確かに、昔からの言葉に、
「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。
明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。
先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。
騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。
「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。
私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。 またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。 日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。
ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。 これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。
私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので、「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。
当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。
3分の1が飲食費、3分の1が郵便貯金、3分の1が「慰安所」への支出だった。 貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。
私も初年兵として1ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。
1人の兵士がそれぞれ3等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。
ちなみに当時の給料は兵は1カ月平均13円程で、その3分の1を約4円として計算すると33万人で総額約132万円になる。
「零戦」など戦闘機一機の価格は3万円と言われたが、実に44機分にも相当する。 サラリーマンの初任給が40円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である
以上が、私が商社員として約3年半の間、外部から眺め、また聞き得た「慰安所」と「慰安婦」の実態である。
私が漢口を去った昭和17年夏以降に、漢口兵站(作戦軍の後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関)の副官で
「慰安所」等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、地名・位置等について多少の相違点は見いだしたが、本題の「慰安所」について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。
これでは誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。
「商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う、「いくらか貰うてんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。

*補足
◆問題にして騒ぎ出す者たちの狙い  
次に、軍関与の暴論について証言する。  
私は20歳で現役兵として入隊、直ちに中支の江西省南昌の部隊に出征した。
初年兵教育が終わって作戦参加、次いで幹部候補生教育、途中また作戦と、1ケ年1度の外出も貰えずに久留米の予備士官学校に入校してしまったから、外出して「慰安所」の門を潜る機会に恵まれなかった。  
だが初年兵教育中、古い兵士には外出がある。
外出の度にお土産をくれる4年兵の上等兵に「外出でありますか」と挨拶したら「オー、金が溜ったから朝鮮銀行に預金に行くんだ」と笑って返事をしてくれた。
周りは周知の隠語だからクスリと笑うだけだった。
南昌には師団司令部があった。
「慰安所」には内地人も朝鮮人も中国人もいて、兵士は懐次第で相手を選んで遊んだのだろう。
私は幹部候補生の教育を、南昌から三十キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。
「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。
もちろん勤務は24時間である。  
私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。
兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。
その姿で「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の
利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。
考えてみるまでもない、そこで遊んでいる兵士は丸腰どころではない。もっと無防備で不用心な姿の筈である。その将兵を守るべき責任は部隊にあるのは当然だ。
それに性病予防の問題もある。そんな田舎に医師や病院がある筈がない。性病予防のため軍医や衛生兵が検査を実施するしかない。  
「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも、中国人だった。彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。
大人数なのだから、それなりの輸送手段もいる。辺鄙な場所だから部隊に頼る以外方法がない。部隊が移動する時もそうなるだろう
私の話す湖北省の言葉もだいたい通じたので、経営者と立ち話をして彼女たちについてそれなりの様子も聞き出せた。
今でも「慰安所」の両側に部屋のある中廊下を巡察した不粋な自分の姿を思い出すが、
こんな漫画にもならない風景が現実にあったのだ。これは私の部隊だけではないと思う。  
もう60年も昔のことである。時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。したがって娼妓(ここでは慰安婦に相当する)に対する解釈も当然変化している。
そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更これを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。
言えることはただ一つ、不完全だからこそ喚き散らしていれぱ、何かが得られると狙っているということだ。  
戦場に身を曝し、敵弾の洗礼を受けた者として最後に言っておく。このことだけは確かだ。野戦に出ている軍隊は、誰が守ってくれるのだろうか。周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れないのだ。
自分以上に強く頼れるものが他に存在するとでも言うのならまた話は別だが、自分で自分を守るしか方法はないのだ。  
軍は「慰安所」に関与したのではなく、自分たちの身を守るための行為で、それから一歩も出ていない。
「異常に多く実を結んだ果樹は枯れる前兆」で「種の保存の摂理の働き」と説明されるが、明日の命も知れぬ殺伐とした戦場の兵士たちにもこの「自然の摂理」の心理が働くと言われる。
彼らに聖人君子か、禅宗の悟りを開いた法師の真似をしろと要求することが可能なのだろうか。  
現実は少ない給料の中から、その3分の1を「慰安所」に持って行ったことで証明されている。有り余った金ではなかったのだ。
「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。
買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることのできないこの行為は続くだろう。
根源に人間が生存し続けるために必要とする性さがが存在するからだ。
「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。
こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。【転載終了】