そして、空襲警報も鳴らなかった!
原爆投下目的は、殺戮能力の実験だったのである・・・?!
パラシュートを付けて、
地上600メートルで炸裂!
投下機は、爆風を避けきれず損傷、
山口県下の山中に墜落・・・?!
慌てて、B29エノラ・ゲイ号に主人公が代ったのである?!
それにしても、
歴史に捏造は付きものだが、
これなどはあまりに有名な話であるから、驚天動地の捏造だろう?!
しかし、
信憑性は高い。
何故なら、空襲警報は鳴らなかったのである。
句集警報が鳴ったら、多くの人々は陰に隠れるか、防空壕に避難する。
それでは、殺戮実験にとって都合が悪い。
『何度も書くが、原爆投下は戦争犯罪!』の転載記事に空襲警報が鳴ったとあるが、
それを見たある被爆経験者からメールを頂戴した。
名は伏せて、その部分だけ転載しよう・・・。
『何度も書くが、原爆投下は戦争犯罪!』の中の転載されている記事で「日本側のレーダーは、近づいてくる飛行機群をキャッチし、広島を含めた一帯に空襲警報を発令した」と書いてありましたが、原爆を投下された時には空襲警報は出ていませんでした。母も、B29が来た時、外で掃除をしていましたし、空襲警報が出ていたとは誰からも聞いていません。その時、私と弟のそばにいて下さった私の祖母の叔母(母の手記によると、その73歳のおばあさんは、疎開みたいに預かっていたらしいのです)に、B29が来た事を知らせようと思って軒下に入った時に投下されたそうで、母は直射光を浴びずに済みましたが、すぐ隣のお姉さんはもろに光を浴びて、顔全体が火傷でした。空襲警報が出ていたら、外
に居なかったと思います。
多分、3.11の前年くらいの8月6日のNHKスペシャルで、国は原爆投下を知っていたのに空襲警報を鳴らさなかった、、、というのをやりました。それを見て本当にびっくりしました。せめて、空襲警報が鳴っていて外に居なかったら、うんと多くの方が助かったのに、、、と悔しく思いました。
その番組か、誰かに聞いたのかははっきりしませんが、朝早く一度空襲警報が出たけれど、解除されたということでした。(O・Kさん<女性>)
だから、
転載記事の2つの点は符合する。
つまり、
- 国は知っていた。(偵察行動を取った。)
- B29ではなかった。(B29なら、空襲警報を鳴らすだろう・・・?!)
前日から、B29で何度も偵察・陽動作戦を敢行しながら、
実は、原爆投下機は一機だけで侵入した。
油断を喚起するためである。
そして、原爆投下した。
何事もないように日常生活を開始し始めた8時過ぎ、
原爆は炸裂したのである。
しかも、地上600メートルで炸裂したので、
その閃光と衝撃波は最大限に広汎化したのである。
地上では、大きなクレーターは出来るかもしれないが、
爆発被害は矮小化したであろうと考えられる。
最新の通常爆弾に気化爆弾と言うのがあるが、
理屈は同じである。
そして、投下機は損傷を受けて、山口県下の山中に墜落した・・・?!
あり得ないことではない。
又、誰がそれを原爆投下機と認識したであろうか?
少なくとも墜落したのなら、その事実は存在するはずであるから、
調査をしてみるのも必要だろう。
その能力と時間は、自分にはない。
さて、
日本国がその事実を察知しておきながら、
なぜ放置したのか?
あるいは、放置せざるを得なかったのか?
少なくとも、
空襲警報を発令することを何故しなかったのか?
殺戮実験に加担したのか?
これは一つの大きな疑問である。
闇は、さらに深まる・・・。
【転載開始】
(2015.8.17 追記があります)
本日は平成27年8月15日、70回目の終戦記念日となりました。過去の世界大戦で亡くなられた全ての方々に哀悼の意を表したいと思います。
* * *
さて、戦争について考える日に相応しく、本タイトル「旧陸軍士官が語った歴史の真実(1)」、の続編を掲載したいと思います。前掲載から久しく時間が経過したので、同記事の要点を再掲します。
「二・二六事件の首謀者たる青年将校は全員処刑されてなどいなかった」
これは、旧陸軍士官T氏の証言ですが、彼らが処刑されなかった本当の理由を私は
「その後の計画戦争(太平洋戦争)に向かわせるための茶番劇」
と推論しました。そして、その茶番を画策したのが日米欧の軍産複合体、私が定義する秘密組織「クロカモ」、もしくはその前身だったのではないかという予想です。
■原爆投下写真の出自はどこか?
下記の写真は、歴史の教科書などであまりに見慣れてしまった、広島への原爆投下後に発生したキノコ雲の写真です。
写真1:広島における原爆投下後のキノコ雲
さて、この写真はいったい誰が撮影したのかみなさんお考えになったことがあるでしょうか?常識的に考えればエノラ・ゲイ号に随行した米国友軍機内の兵士と 考えるのが一般的ですし、書籍・ネットでも、「米軍撮影」とキャプションが打ってあるものがほとんどです。これについて、T氏は再び驚くような証言をされ ます。
T氏「教科書によく掲載されている広島の原爆投下の写真ですが、あれは私が撮影したのですよ。戦後、進駐軍に接収されて米軍のものになってしまいましたが。」
日月土「どうやって撮影されたのですか?敵機が多かったと思いますが?」
T氏「キ○○式(正確な名称は失念しました)という偵察機からです。当時の日本軍機には珍しい機内与圧が可能な偵察機で、敵爆撃機よりも高い高度で航行が 可能でした。敵機による新型爆弾の爆撃情報が事前に入ったので、状況を記録するため出撃したのです。私は、敵爆撃機の動きをその更に上空から観察していた のです」
T氏が搭乗していたという偵察機については、その後その存在を調べましたが、既存の年鑑などでは見つけ出すことができませんでした。ただし、ある旧軍機マニアの方から次のような回答を頂いてます。
「その型の存在を知ってるのですか!よほどの軍機マニアしか知らない情報ですよ」
■原爆を投下したのはエノラ・ゲイ号ではなかった
T氏と私の会話は更に続きます。
日月土「それでは、原爆を投下したのはB29、エノラ・ゲイ号だった・・」
T氏「それは違います。私が見た爆弾投下機はB29ではなかった。しかも、その投下機は爆風の回避行動に失敗して損傷を受け、しばらく飛行を続けていましたが、山口県の山中に墜落しました。私の乗った機は、その爆撃機の行動を上空からずっと追跡していたので、間違いありません」
写真2:エノラ・ゲイ号(左)とB29の全体写真
写真3:写真はボーイングB17、T氏が目撃した爆撃機とも異なるが、形状は
こちらが近いとのこと。使用されたのは、おそらくB17の原爆投下用
改造機材と考えられる。B29と見間違うはずがない。
何ということでしょうか、広島に原爆を投下したのはB29ではなかった。つまり、エノラ・ゲイ号ではなかったということ。世界中の戦史、歴史教科書に記されているだろう、悲惨な原爆の記述は、その投下機材の説明から嘘で始まっていることになります。
ただし、米国内プロパガンダの視点から考察すれば、原爆を投下したのが特殊なカスタム機材で、それが墜落・消滅してしまったため、量産型のB29を引っ張り出し、エノラ・ゲイ号としてヒーローに祭り上げ、戦意高揚に用いたという米国軍の意図はわからなくもありません。
しかし、理解できないのは、原爆投下機が国内に墜落しながら、その情報を一切表に出さない日本軍の不可解さです。原爆投下情報を日本軍が事前にキャッチし ていたとの話は、戦史研究家の間でも有名な話なので、ここでは敢えて取り沙汰しませんが、国内プロパガンダ、または米国・世界に対してアピール力の高い原 爆投下実機の存在を、何故今もって内外に隠すのか全く不明です。
ここからは推測になりますが、投下機墜落事実の隠蔽は「米国が原爆で日本をねじ伏せた」という日米合意の戦争シナリオに悪影響を与える危険があると判断さ れたからではないのか?もしかしたら、広島原爆投下の9日後にバタバタと終戦を迎えたのは、日本が原爆の威力に屈したからではなく、不都合な情報が拡散す る前に、戦争をシナリオ通りに終結させるするためだったのかもしれません。米軍機墜落の隠蔽といい、何だか、その40年後に起きる未曾有の航空機惨事に似 ていなくもありません。
本当の日米関係とはどうなっているのでしょうか?そして、戦争っていったい何なのでしょうか?
写真4:スミソニアン博物館の「エノラ・ゲイ」号
70年の歳月、米国民・世界の人民も騙され続けていたということになりますね
出展:http://airandspace.si.edu/collections/artifact.cfm?id=A19500100000#myCarousel
* * *
T氏は、その偵察任務からの帰還中に米国P51戦闘機隊に銃撃を受け負傷します。この会話の最後、今でも少し引きずる足の脛をさすりながら、その時の負傷跡がこれだと教えてくださいました。
T氏のお話はさらに戦後へと続きます。それはまた、GHQによる日本占領が予め決められた規定路線であったことを疑わせる内容となっています。
写真5:米国P51戦闘機
身はいかに なるともいくさ とめにけり
ただたふれいく 民を思ひて
昭和20年 昭和天皇
※戦争当時、実権なき張子の最高統治者として祭り上げられた昭和天皇についても、いよいよ語るべき時が来たようです。クロカモ、三ツ巴の皆さん、必読です。
遠つ祖霊の始まりの地より
管理者 日月土【転載終了】