草むしり作「わらじ猫」前14
㈡吉田屋のおかみさん⑧
「おや随分と早かったね。何だいハアハア言って、走ってきたのかい」
大久保屋の勝手口に入ってすぐの横には、柿の木が植わっていた。随分と大きな柿の木で実をたわわに実らせている。柿の木の根元の部分の植え込みの中を、ごそごそと手でかき回わしていた大奥様は、手を止めておかみさんに声を掛けた。
「はい、猫に追い立てられまして大急ぎでやってまいりました」
「猫がどうかしたってかね」
大奥様は植え込みの中をまたかき混ぜはじめた。
「大奥様、茗荷はまだございますか」
「ああもう終わりだね、寂しいことだよ。お前さんとこから立派な鯛が届いただろう。今持ってきた魚屋さんにさばいてもらっているところだよ。半身は塩焼きに、もう片方は潮汁にしてもらおうと思ってね。しょうがない、吸い口はゆずの皮にでもしてもらおうかね」
それでもまだ茗荷の植え込みの中を、大奥様はかき回していた。その横で女中が一人、大奥様と一緒に植え込みを覗きこんでいる。
「あぶない、大奥様」
おかみさんが井戸端で魚をさばいている魚屋の太助に、声を掛けようとしたときだった。背後から耳を劈(つんざ)くような声がした。慌てて振り向くと、大奥様を女中が庇うように覆いかぶさっている。後ろからタマが飛び出して来た。そこはさっきまで大奥様がかき混ぜていた植え込みだった。総毛立ったタマは、口に何か長いものを咥えている。
「きゃー、蛇じゃないかい。タマ」
思わずおかみさんも大声で叫んでしまった。すでに蛇の頭はタマに食いちぎられていた。
「おおっと、こいつはマムシですよ。おかみさん」
騒ぎを聞きつけて飛んできた太助が、タマが食いちぎった蛇の頭を見て言った。
「マムシだって。大奥様、大丈夫でございますか」
慌てておかみさんは大奥様のところに走り寄った。
「ああ、わたしならなんともないよ。それよりお仲、お前喋れるのかい」
大奥様はそっちの方がもっと驚いたようだ。
「………………」
言われて気が付いたのだろ、女中も何か喋ろうとしたが、言葉が出てこなかった。
「そんなにあせることはありませんよ、お仲ちゃん。それよりもお医者様をお呼びしたほうがよろしいのではませんか。大奥様」
「驚いて尻餅ついただけだから、医者なんか呼ばなくていいよ。それより誰かちょっと手を貸しとくれ」
「おなつ」
おかみさんはおなつに目配せをした。おなつは背負っていたお里をおかみさんに渡すと、奥様を助け起こし、そのまま背負って歩きだした。
「おやまあ、力のつよい子だね」
「これはおなつと申しまして、九つの時より吉田屋に子守奉公に来ております。さっきの猫も、元々はおなつが拾って育てた猫でございます」
「あれが吉田屋のタマかい」
大奥様はおなつに背負われたまま振り返って猫を探したが、もうどこにもタマは見当たらなかった。
「タマならとっくに帰っていきましたよ。子どもが気になるのでしょうね」
マムシの死骸をおっかなびっくりで見ていた太助が答えた。
「おや魚屋さん。ついでにあんたそのマムシ皮をはいで、軒下にでも吊るしておくれ。岡田屋の大だんながだいぶ弱っているって話だから、あぶって食べさせたら少しは元気になるんじゃぁないかね」
「勘弁してくださいまし大奥様、あっしは海の物ならウツボだろが何だろうが平気なのですがね。陸(おか)の物、特に蛇だけは苦手なのでございますよ」
「蛇だと思うから怖いのさ、鰻だと思ってごらん平気だろう」
および腰の太助に大奥様はマムシの始末を押し付けると、おなつに背負われたまま家の中に入っていった。それに続いておかみさんや子どもたちもいなくなった。騒ぎを聞つけて飛んできたお店のものたちも、マムシの始末を押し付けられては大変と、さっさと引っ込んでしまった。
一人になった太助は棒の先でマムシを突きながら、どうしたものかと考えあぐねていた。
「なんだい兄さん、江戸子だろう。だらしないねぇ」
声を掛けてきたのは女中にしてはちょっと婀娜(あだ)っぽい感じがする女だった。
「貸してごらん」
女はマムシの首を押さえると、指でくるりと皮を剥いた。太助の包丁で腹を割くと、竹の棒の先を二つ割り、赤裸のマムシを挟んで太助に渡した。
「済まないね、姐さん。ここの女中さんかい」
「ああ、先月口入れやの口利きでね。入ったばっかりだけどね」
後ずさりしながら棒切れに挟まったマムシを受け取る太助に、女は答えた。
「いやだねぇ、山育ちだってことがばれちまったじゃないかい」
女が急に科(しな)を作って立ち去ったのは、お仲が二人の様子を見ていたからだろうか。
「お仲ちゃん、このことは内緒だよ。深川の生まれだってことになっているけどね、あたしゃ本当は秩父の出なのよ」
女はお仲に手を合わせると、炊事場に消えていった。
「別に秩父だって構わねぇのに、まったく女って言うのは、変なところで見栄はりたがるものだ。それにしても人の大事な商売道具でマムシなんか裂きやがって、おお駄目だ、気持ち悪くってしょうがね。女中さんお仲さんかい。すまないけど、ここで包丁を研がしてもらうよ。ついでにあんたの所の包丁も研いであげるから、持っておいで」
太助は井戸端で包丁を研ぎ始めた
―柿の木の下の茗荷の植え込みの下には、マムシが潜んでいるって聞いたことがあるけど、ここは天下の日本橋だよ。日本橋にマムシが出るなんて、聞いたことないよな。
包丁を研いでいる太助のところに、お仲が数本の包丁とお茶を持ってやってきた。
「こいつは済まないね、お茶まで入れてもらって。それにしても、今までマムシなんか出たことあるのかい」
お仲はちょっと考えこんで首を横に振った。その顔がなんだか今にも泣き出しそうで、太助はマムシのことよりもお仲のことのほうが気になってしまった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます