オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

宗教勧誘からの教訓

2022年07月02日 | Weblog

昔若かった頃宗教活動の勧誘を受けたことがある。

 会場にたくさんの人達が来ていて、あちこちグループを作って活発に討論会をしている。私もある同年代の若者グループに入って討論に勧められるままに参加した。議題は多岐にわたっていて、「生きるとは何か」「幸福とは何か」「平和とは何か」というようなスケールのでっかい議題だったと思う。これらについて参加したみんなが真剣に討論している。聞いているだけでも面白かった。

私も指名されて話す場面もあったが、

 こんなに真剣な討論に参加した経験があまりなかったので最初は戸惑って思うような発言ができなかったが、慣れるにつれて発言回数も増えて、私としては討論の内容はそれなりに面白かった。そして、会も終わりの頃になると、私への当該宗教への勧誘が始まった。たぶんすでに入信していると思われる4~5人に囲まれて、当該宗教のすばらしさを教示して入信を勧められた。

しかし、私は最後まで入信することはなかった。

 周りの人達も私を説得することはできなかったのである。当然、私も冷静に反論したし、自分なりの考えを表明した。最後は平行線である。最終的に言われたことは、「まずは入ってみればその良さがわかります。是非入ってみて下さい」であった。これに対し私は、「外側から見て良さの解からないものの中に入ろうとは思いません」と言い切った。これに反論するものはいなかった。

そして、それからずっと特定の宗教とは無関係である。

 強いて言えば、いろんな宗教のいいとこ取りをして、大いに参考にさしてはもらっているが、信奉する宗教はない。これで良かったと思っている。これからもそうだろう。特定の宗教に固執するつもりはない。例え死に間際になってもそうだろうと思う。宗教に頼ることなく自分で死んでゆくつもりだ。自分の中では自分自身が神であり、自分自身の生き様が宗教であると思っている。

この世の中にはいろんなものが森羅万象として存在している。

 その中の何に興味をもって取り組んでゆくかであるが、何でもかんでも手当たり次第という訳にはいかないし、効率が悪くて、限られた人生を無駄使いすることも勿体ない。それではどうするかと言うと、不思議と自分自身の中に生来の感覚があって、それが興味や好き嫌いや良し悪しを判定してくれるのである。その自分の内からの声を大切にするのである。自分に忠実に誠実になることでもある。

まずは、そこが出発点である。

 そこに、周囲の状況や環境や打算や偏見などを交えて、共感したり同調したり強要されたりするとおかしなことになる。自分自身の中の生来の感覚で受け入れられないものは受け入れなくていいのである。それを無理して受け入れるからおかしなことになる。そして、受け入れたものは具体的に行動を起こして経験してみるのである。思っていることと現実は一致しないのが常であるが、やってみなければ一致しているか一致していないのかもわからない。うまくいくかもわからない。

昔の宗教の勧誘の場で学んだことは、

 この最初の「自分自身の中の生来の感覚」を大切にすることである。これを大切にして信じていなかったら今頃はある宗教の信奉者に望みもしないのになっていたかもしれない。まぁ、そんな寄り道をするのも一つの人生かも知れないが、自分のゆく道は自分で決めたいものである。周囲に流されたり、何となく雰囲気で決めたり、変な思い込みがあったりしたのでは後々後悔することになる。そして、自分で決めたことであれば後悔することもないし、いい経験となる。


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