一番の問題は、自然そのものは理論的でないことである。
理論的な考え方は、人間が自然を分析し探求する手法として発展してきた。自然現象は理由も説明も本来は必要なく、ただ存在するだけである。その自然を人間が解明するためにコツコツと積み上げた知識体系に矛盾があってはならないので理論的な考えが発達したのだろう。しかしながら自然そのものは矛盾だらけであり、その矛盾も包含して壮大な原理が存在し、無限の可能性を秘めている。人間が解明したのはほんの一部なのである。
そんな理論的考え方を唯一至上のものとして信じて疑わないことは問題を孕んでいる。
AはBである。BはCである。よってAはCである。というのが最も簡単な理論的考えであろう。理論的考えに矛盾はない。だからAはCであることは真理だと主張する。しかし、この理論の最初のAそのものは何も証明されていない。このAが間違っていればこの理論は成り立たない。A→B、B→Cが本当に正しいのかどうかはこれまた解らない。そして理論的な考えを突き詰めてゆくと、この世の中に完璧な真実は存在しないことになる。人間の作り出したすべての真実は不完全で不確実なのである。
数学の考え方は理論的である。
なぜならばA→B、B→Cは完全に間違いないことを数字の世界で証明しているからである。100%の確率で間違いがなければAの真偽は別としてA→Cは正しいことになる。このようにして数学の世界では多種多様なことを数式に変換して証明を繰り返してきた。ところがそれにしても、未だに過去に証明されたものが間違いであったこと、または不完全で欠陥があることを数学者自身が証明している。面白いものである。別に数学そのものを揶揄するつもりはない。自然を解明するためには理論的考えは不可欠なのである。
我々一般人は数学者でも学者でもない。
そして、形だけではあるが理論的考え方を模倣し、人生の中で活用している。特に第2次世界対戦以降は西欧の文化に蹂躙されて理論的考え方を唯一至上のものにしてしまっている。民主主義や自由主義も同じではあるが、この理論的考え方は日本人の精神に多大な影響を与えて、日本の文化が廃れて、合理主義、拝金主義が蔓延しているようである。どちらを見ても理に合わないことはやらない、金にならないことはやらない、無駄は徹底的になくす風潮が跋扈している。
どういうわけか、理論的考え方で攻められると何となく納得してしまう。
いわゆる理詰めである。通常は理論的考え方は複雑に絡み合って結論に至るまでには多大の年月と労力を必要とするが、我々一般市民はそんな複雑なことは理解できないし、そんなことに没頭できる時間も労力もない。だから簡単な理論的考え方を適用して、理論的だから正しいんだと説得材料に使用する。A→B、B→C、よってA→Cである。とぶち上げる。少なくとも最初のAを持ち出した理由も根拠も定かではないし、A→B、B→C、も100%正しいわけではなく、ほとんどが部分集合の一致だけで理論を展開している。
こんな理論的考えは亡国の思想でもある。
誰でも理論的考え方ができるような教育に専念している。情緒的とか美的だとか侘び寂びだとか粋だとか洒落だとか自然を愛でる心だとか人を慈しむ心だとか人を助けるとか社会に貢献するとかそんな心は置き去りにされたままである。もっと言えば日本古来の文化が捨て去られてしまっている。いや、捨て去られつつある。これでいいわけがない。もっと大切にする心を今現在から育て始めなければならない。もう遅いかもしれないがまだ日本の文化は残っているので間に合うだろう。少しは考え直してもらいたい。
頭のいい人は理論的考え方が得意らしい。
それでは、理論的考え方に徹した人が尊敬されるかというとそうではない。反対に冷徹で愛情のない人間に見えてしまう。それよりも文学や芸術に名を残した者が尊敬される。そして、理論的な考えのできる尊敬できる人は言語、宗教、音楽、料理、絵画、哲学、文学、ファッション、法律などにも理解があり、総合的な知識を保有している。この総合的な知識から貴重な創造的かつ独創的な考えが生まれるのである。コツコツと積み上げれば素晴らしいものができるわけではない。そこには神の啓示の如きイノベーションが必要なのである。
理論的考え方にも欠点がある。
理論的考えは直線的な系列で繋がっている。複雑なものほどこの系列は膨大な長さになる。我々凡人はこの系列をすべて把握し理解することはできないが、理論的な考えをする人はこれが可能である。完璧に理論的であれば結果に間違いはない。しかし、系列の要素の一つにでも間違いがあれば結果は100%確実に間違いになる。そして、頭のいい理論的な考えの人は忠実に間違いなく間違った結果を導く。系列の要素の間違いを疑わないのである。なぜならその要素自体は事実に基づいていると確信しているからである。
我々凡人はその結果を見せられて、「そんなことはないだろう」と思う。
根拠も理論的な系列も説明できないが直感でそう思う。しかし、理論的な考えに直感なんてあり得ない。だからこの直感は無視され、理論的考え方に説得され納得させられてしまう。しかし、本当に重要なのはこの直感である。直感というと心もとないが、総合判断力とも言える。自分の生きてきた人生を集大成した中から生み出された直感でもある。人それぞれに能力は異なり、優秀な人はそれなりに、優秀でない人もそれなりに自分の結論を得るのであろうが、それは理論的考え方の能力の差ではないだろう。
一見理論的な考え方をしているように見えるが、
実は何も理論的ではなく、理論的な考え方を振りかざしているだけである。理論的な考え方は解りやすくて万人に受け入れやすいが、誤解も多いのである。そして、もっと困ったことには理論的な本人が信じて疑わないことである。そして間違った結論を積極的かつ精力的に推進するよう努力する。世の中に多大な害を及ぼすばかりである。物価が高騰している→庶民が生活に困窮している→一時的な所得税減税をする、果たしてこの理論的考えは正しいのであろうか?
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