システム設計において、少なくとも一人以上はシステム全体を理解している人が必要である。
どんなにシステムが大規模になろうと、コンピュータを使った情報の管理技術が進歩しようと、人間の「頭脳」でシステム全体を理解している人がいない限り、システム開発もシステム設計も成り立たない。システム設計の中核となるような人は天才的な頭脳とひらめきを必要とする。そのために、30歳を過ぎたらシステム設計の統括責任者は務まらないと言う。柔軟な思考力と創造的な判断力と天才的なひらめき(神憑り)を必要とするからである。かと言って、30歳過ぎた人がシステム設計に従事できないわけではない。サブシステムにおける特定分野のベテランとして能力を発揮することになる。そこでは積み上げた経験や過去のノウハウが能力を発揮する。全てをゼロから開発するようなシステム設計はあり得ない。
日本の国をシステム設計に当てはめてみよう。
果たして日本の国に日本のシステム全体を理解している人が一人でもいるのだろうか?このような人を育てない限り日本の国のシステム設計はいつまで経っても進展しないし最初から存在しない。もしかしたらシステム設計の要望書、概要書さえも存在しないのではないだろうか。ただ、成り行きに任せて問題点が生起した時にその場その場で泥縄式に対処してゆくだけである。少なくともここ半世紀くらいにおいてしっかりと日本の国のシステム設計がなされた形跡はないし、その場その場の問題解決は結果的にはみんな失敗に終わっていると言っても過言ではない。しっかりとしたシステム設計書と将来展望がないからである。
その原因を探ってみると、
日本人独特の「ボトムアップ」方式ではなかろうか。そしてそれぞれの指導者が「細かいことは解らないので部下に任せる」意識で職務を遂行しているのではなかろうか。問題が生起した時に部下を叱咤激励して問題解決に当たらせるのが指導者の役割だと思っている。いわゆる「バグ潰し」であり、根本的な解決には至っていない。「問題が生起する前に問題を提起する」人が必要である。それを実行するのはそれぞれの指導者でなければならない。日本の国のシステムを見渡すと、すでに明らかに「問題」と判断されても見過ごされているものがたくさんある。日本国政府も「問題点が山積みされている」と認識している如くである。それでもそれを問題提起する人がいない。常識だけで考えてもおかしいと思われることが堂々とまかり通っている。
全てを理解せよとは言わない。
全てを理解するためには天才的な能力を必要とする。組織が大規模になればなるだけ全てを隅々まで理解することは困難になる。よって、全体を理解するための本質的な核となる部分を掌理することになる。その本質が正しいのか間違っているのか、また何が本質なのかを理解するのには「天才的な能力」を必要とする。天才的な能力を持たない人には完璧に理解することは不可能かも知れないが、それでも最低限理解する努力はしなければならないし、概要だけでも理解する必要はある。「細かいことは解らない」ですませてはいけないと思う。細かいことの積み上げで全体が理解でき、細かいことの中に本質が隠されている。必要であれば指導者として細かいことまで理解しなければならないのである。どこまで理解できるかが指導者の能力であり実力になる。
全体を理解しようと努力すれば、
自ずと全体の問題点が見えてくるし、下位の指導者からの問題提起を総合するだけでも、全体で対処すべき将来展望と行動計画が見えてくる。後は、将来展望を明確にして、「自分の責任で」決断し行動計画に基づいて具体的な対策を実行するのである。このことの積み重ねが日本のシステムを改善することとなり、一番トップに立つ人(総理大臣)の将来展望と具体的な実行計画が日本国のシステム設計書となる。システム設計書がしっかりとできれば、ボトムアップだけでなくトップダウンで全体を一貫性を持ってかつ効率的に統括することができる。日本人独特のボトムアップが悪いわけではないが、トップダウンの利点も生かして問題点をなくす努力をしなければならない。
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