狼は人間にとっても怖い存在である。
相手を倒す牙と言う武器を持っている。しかし狼はこの牙と言う凶器の威力も恐ろしさも効力も十分知り尽くしている。生い立ちにおいて仲間との集団生活で否応無しに経験させられる。自分の仲間はみんなこの凶器を持っており、この凶器で獲物を捕まえているのである。子供の時のじゃれ合う遊びの時も咬み合いと追いかけっこである。
狼も時にはお互いが対決した仲間同士の争いもある。
しかし、狼同士の争いは徹底的なところまで到達しない。負けを察した狼は相手に首を差し出して降参を示し、これで勝負は決まりである。最後まで徹底的に争うことは相手を殺戮することだと知っているし、本気で凶器を使えば相手の命を奪うことを知り尽くしている。負けた狼は群を離れて一匹狼として生活することとなる。また、そのような逃げ場所が自然界には用意されている。
鳩は平和の象徴と言われている。
私にすれば、公園や神社で餌を奪い合っている姿を見るとそうとも思えないが、この鳩を狭いケージの中に集団で詰め込んで飼うとストレスが溜まって互いに争いが始まる。そして、弱いものが犠牲になって集団から体当たりを受けつっつき回される。ところが、鳩は暴力の限界を知らず、最後まで徹底的に攻撃を繰り返し、相手の命が絶えてもなおかつ執拗につっつき回して犠牲になった鳩は凄惨な状況になってしまう。
昨今の日本の犯罪や事件を見ていると、この閉じ込められた鳩を思い出す。
人間は考える動物である。この状況を打開するための解決策は前述の教訓から四つあると思う。ひとつは、狼が自分の牙の脅威を知り尽くしていたように、暴力の使い方を子供のころから教え込むことである。そのためには、暴力から隔離する事なく、集団生活の中で暴力の使い方を子供のころから教えることである。その前に子供のころから自由な集団生活を十分させれば自然発生的に暴力の使い方を学べると思う。ちょっと過激かもしれないが重要なことだと思う。
次に、暴力の中止する程度を身につけさせることである。
たぶん、この事は暴力をよく知ることの結果として自然に生まれるんだろう。「もうこの位でいいだろう」という自らの決断と仲間への勇気ある忠言である。少なくとも抵抗する力を失っている者に対する暴力は正常な思考力を欠いた神経症的な発作で、自然の摂理からは許されるものではないし、力で優位を示す者の行為ではない。ケージの中の鳩の凄惨な争いは、弱い者ゆえの結果であり、殺傷力のないクチバシを持つ動物による限度を知らない暴力の結果でもある。
次に、集団を閉鎖的な空間に閉じ込めないことである。
神経症的な発作は、制御を大きく越えるストレスの結果であり、そのストレスは極端に閉鎖的な空間から生じている。鳩もケージの中に閉じ込めなければストレス発散のため弱い者いじめをすることはない。人と人のヒューマンスペースを適度に保つことが重要であろう。ヒューマンスペースが極端に狭いために巨大なストレスへと発展してしまう。
次には、必ず負けた者への逃げ場所を用意することである。
自然界には必ず逃げ場所がある。この逃げ場所が無用な争いや凄惨な殺戮となることを予防している。上記のケージの中の犠牲となった鳩はケージから出して隔離すれば命は救われる。根本的には密集した集団生活状況を改善することだが、人間は集団で社会生活している特性上、人間同士がひしめき合って暮らしている。そうであれば、せめて最悪の時の逃げ場所は確保しておく必要があるし、周囲の者も逃げ場所を用意しておく必要がある。
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