オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

神の啓示のごとく

2007年04月01日 | Weblog

解らないものは無理に解釈せずにそのままにしておく。

 ただし、解らないということを忘れないことである。そうすればいつの日か解らないことが解るようになる。無理に解ろうとすると真実を曲げた過ちを犯すことになるし、間違ったままで不必要に決めつけられ固定化されたものは未来永劫修正されることはないし、反対に修正困難になる。物事の考え方は柔軟に自由度をもたせて開放的になるよう心掛けなければならない。

世の中に確定したものはない。

 AからBへ情報が送られた時、従来の考え方では完全に送られたと考える。しかし、送られたのは一部で、Bが理解できたのはまたその一部である。このギャップをどうするかというと、BがAに対して理解できた部分を確実な方法で送り返すのである。送り返された部分がお互いに理解できた共通認識となる。

送られた情報の理解した部分と理解できなかった部分を分別する必要がある。

 理解できなかった部分はそのまま放棄される。必要であれば理解できなかった部分の情報を新たな形で送出しさらなる相互理解を図る。しかし、完全に相互の理解が一致することは永遠に不可能であろう。これが現実的な現象である。完全に相互の理解が一致したと思っているのは幻想であり、現在のシステムの欠陥でもある。

現実の自然現象は不確定で確率的である。

 現代人の作り上げた確定的な古典数学的な世界は架空のものであり、実験的な閉鎖空間での現象に過ぎない。いい加減で予測不能なのが現実の現象である。現実の現象がいい加減で予測不能であるところから出発してシステムを作り替えればもっと自然で人間的な思考環境が出来上がるのではないかと思っている。

人間関係もギスギスしなくなる。

 解らないことは解らないと堂々と言えるし、「解らない」と相手に発信できる。解らないことは解らないままに放ったらかすことも許される。解ろうとするためにはお互いに情報を頻繁にやり取りしなければならない。これが現代社会に欠けている部分ではないかと思う。個々人が個々人の世界に閉じこもって悶々としているし、自分の世界だけで問題解決に苦悩している。

不必要な決めつけもなくなる。

 不確定的な事実はいつでも可変であり自由度が高い。本来事実は現時点の事実であり、時間が経って環境が変われば事実は過去のものとなりいかようにも変化する。我々が日々一喜一憂している事実は全てが垂れ流しの情報に過ぎない。そして、事実に基づく判断は時事刻々なされている。その判断結果が情報として流通している。個々人の時事刻々の事実に基づく判断が新たな情報を生んでいる。

我々が悩んでいるのはこの「不必要な決めつけ」である。

 この決めつけによる思い込みが悩みを増幅しているし迷路に導いている。この決めつけが不確定であると確信できれば随分と考え方が楽になる。核となる部分は確実に存在するがその境界は不確定である。そのような自由な思考環境の中で核となる部分を互いに共有することとなる。いびつな突角やトゲトゲはなくなり自由度も高くなる。

世の中は解らないことだらけであるところから出発しよう。

 そうすれば、全体が見えてくるし、断続的な数字でなく連続的な量の捉え方ができる。断続的な数字をいくら積み重ねても全体は見通せない。量を正確に数字に変換することに何の意味もないし、無限小にも無限大にも通じている現実世界で正確な数字を計測することは不可能でありかつ限界があり、これが真実を見いだすことでもない。

我々の思考においても同じで、

 確定されたものを積み上げるのでなく目的目標から全体を捕らえる考え方を心掛けるべきである。地上から摩天楼をコツコツと築いて神に近づくのでなく、天空からの神の啓示のごとく真実の仮説を立ててこれを検証する方策を見いださなければならない。当然完璧な真実は存在しないが、一歩でも真実に近づく努力をすることが我々に課せられた使命である。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 賞味期限 | トップ | 情報化の列島改造論 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事