平昌の冬季オリンピックが終わった。
たくさんのエピソードを交えてメダルダッシュが続いて多くの話題を呼んだ。報道の内容を見ていると、日本びいきに偏向し過ぎていることと、何となくナショナリズムを鼓舞するようなムード作りに終始していたのに半分以上あきれて、目をつぶって見ない振りをした、もしくは冷静を保った自分があった。基本的には世界中のすべての選手の活躍ぶりを公平・公正に報道すべきであろう。私も世界中のトップレベルの競技を是非見たいと思っているが、なかなか見れない。ライブ中継はすべてを放送せざるを得ないようだが、これも日本選手が出場しない競技は見れない。また、その後にハイライトと称して流される映像も編集でカットされ喧しいほどの解説がついてうるさくて仕方ない。わたしは会場にいる雰囲気で静かに鑑賞したいと思っているが、なかなか日本の国内では難しいようだ。他の国でも一緒かどうかは定かでない。
何となく、雰囲気的に第2次世界大戦前の盛り上がり方に似ている気がする。
私は戦中派ではないので、直接の経験はないけれども、国を挙げた好戦派の盛り上がり方は、ただの軍国主義だけの暴走ではないようであり、軍部でさえ阻止できずに突っ走った事情があるようだ。国を挙げてイケイケどんどんの様相を呈していた気がする。少なくとも当時の新聞やラジオのメディアでは戦争反対の風潮はなく、一般市民も西洋の民主主義によって手に入れたポピュリズムに酔い痴れて日清・日露戦争の軍部の活躍と今後の躍進に期待して盛り上がっていたようである。もっと言えば、その当時の日本の政治は2大政党によるお互いの泥仕合みたいな醜い争いをしていて国民の信頼とは程遠いものだったと聞いている。政治体制が未熟で国民の信頼を得られずに、破竹の勢いで躍進していた軍部に信頼と期待を寄せたのだろう。今の冷静な国民からするとこの部分がすっかりと忘れられ、我々の先代の国民が一蓮托生だったことがなかったことにされてしまっている。
そして、このオリンピックフィーバーである。
私は何か危険なムードを感じる。お祭り気分で盛り上がることを否定はしないが、その根底には管理された冷静な判断があってしかるべきだと思うし、あくまでお祭りなんだと割り切って楽しむ心構えが必要だと思う。これがナショナリズムの高揚や景気浮揚策や政治的な道具として利用されるのは警戒してかからなければならない。オリンピックの結果はあくまで個人の成績であり、国策としてやっているわけではない。国を挙げて競技者を支援することはあっても、それは特定の人でもないし万人に平等に与えられるものである。国がやることは競技人口を増やしてすそ野を広げることであり、その中で勝ち上がってきた人達は、個人の努力の賜物であって、国の代表でも国の成果でもない。確かに彼らの活躍は同じ日本人として誇らしいことではあるが、そのこととナショナリズムの高揚とは別の話にしないといけない。
そういう意味で、世界中の選手の活躍ぶりを公平・公正に報道すべきである。
報道内容が変に偏向するからおかしくなる。と言うよりもナショナリズムを高揚させるような報道内容に偏向している。日本人選手の、しかも成績優秀な人たちばかりを取り上げるのは何のためだろう。その人達に国民の注目が集まるから、もしくは集まりそうだからそこに的を絞って放送しているのだろうか。その根底には視聴率や購読数があり、その数字そのものはポピュリズムの権化である。日本人選手でもオリンピックのために4年間必死に努力してきた人たちの中で思うような結果が出なかった人達は放送内容からバッサリと落とされて、以後は報道されることもない。可哀そうと言えば可哀そうである。あれほどしつこいくらいに繰り返し活躍者の映像を流すくらいなら、ハイライトシーンでもいいから出場者全員の映像をどこかで流してほしいものだし、海外選手でも上位で活躍した人達は日本人と同等に報道してもらいたいものである。
私はオリンピックはライブではあまり見ない。
便利なのがネットで見ることである。映像を選べば、見たい選手の映像が解説なしで会場の雰囲気のままでしかもノーカットの編集なしで何度でも落ち着いて見れる。実況中継の何時間後かには映像配信されるのである。とっても重宝して楽しませてもらった。当然日本選手だけでなく海外の選手も、成績は悪くてもひいきの選手を、時には話題を呼んだ選手などの映像も好きな時に好きなだけ何度でも自分で選んで見れる。いっそのことテレビ放送をそのままネット配信する時代が早く来ないかと首を長くして待っているものである。我々年輩者には先があまりないのだから是非早い時期に実現してもらいたい。老齢化した時の楽しみはテレビやラジオから流れる番組であることは間違いない。私としては、パソコンも電子機器も自動車もネットワークも年寄りこそ、いや身体的な弱者こそ大いに活用すべきだと思っているし、私自身も思いっきり活用している。だからこそ、このような人達に焦点を当てた商品開発と技術の発展を大いに望むものである。
平昌冬季オリンピックを終わってみると、
活躍した選手の経歴と足跡とたくさんのエピソードを教えてくれる。これらを見ていると、夢、希望、欲望、目標、目的という時系列的な流れを連想する。子供の頃の夢、その夢を実現するための目標、目的、そしてそのモチベーションを支える希望や欲望である。子供の頃の夢では直截的に「オリンピックで金メダル」と表現されるが、私はただ単に金メダルではなく「金メダルを取るような立派な尊敬する人のようになりたい」と言うのが真意だと思う。そこにはキラキラとした輝くような何かを達成した素晴らしい瞬間に身を置いている憧れの人がいたはずである。その人を目指そうと思ったのが子供の頃の夢であろう。夢は夢であって漠然としたものであるが、憧れの人は現実に具体的に存在する。その人そのものにはなれないが少しでもその人に近づこうと自分なりに努力を継続する。これが夢の段階である。その次にはもっと具体的な目標、目的を掲げてその実現のためにさらに一層の努力をする。さしずめ、近隣、市、県、国、世界と目標は広がり、この目標を実現するための目的はより具体的となる。端的には時間であり、完成度であり、技術であり、競技の成績であろう。
このようにして、一段一段階段を登るように実力を養成してゆく。
その過程において自分の能力に対して建設的な希望を持ち、その希望を実現するため日々努力をする。自分が能力を保持した姿をイメージするのである。そのイメージに近づくには何をしたらいいのかを日々悩み苦しみいろいろな助言を仰ぎながら成長してゆく。この過程では必ず競争がある。この競争で相手に勝たなければならない。これは希望と言うより欲望である。この欲望は強烈なモチベーションとエネルギーを発する。競争することは「勝ちたい」という欲望の発露そのものである。この欲望を強く持った者が最終的な競争を勝ち抜く。野生動物の弱肉強食の生存競争そのものだということもできる。ただし、この欲望はうまくコントロールしてやらなければならない。競争が終わっても異常な欲望むき出しのままでは人格が疑われる。欲望そのものが悪いわけではない。この欲望をうまくコントロールできないことが悪いのである。反対に言うと人間にも欲望は必要なのであり、欲望のない聖人君主ばかりではスポーツの競争は成り立たない。
金メダルは競争で一等賞になった人に与えられる。
確かに名誉ではあるが、その金メダルはその時点のそのメンバーでのその環境での一等賞に過ぎない。絶対的なものでもない。これを絶対的なものとしようとするのは「異常な欲望」に他ならない。メダリストが「次も金、ずっと金」と言うことは少ない。これは悪しき欲望である。謙虚にこの次は自分が金になるかはわからないと言うのが正しい。そして自分ができることはそのためにさらに努力することだけである。結果はやってみないと解らない。現在の一等賞をより価値のあるものにしたのは、一緒に戦った他の選手でもある。素晴らしい立派な選手がいる中で一等賞になれたことに価値があるのであり、そのような人達が集まるオリンピックだからこそ参加し勝利することに価値があるのである。そんな中でその他の選手に対して感謝の念を持つほどの謙虚さが重要だとも思う。そんな人格に触れると、さすがメダリストだなあと尊敬し感動するとともに、その人達がキラキラと輝く憧れの人となる。たぶんたくさんの後輩達や子供達がその姿を見て新たな強烈な夢を抱いて後に続くのだろう。
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